第4話 王命
莉蘭と奈瑠は、翌朝に若宮御殿の自室に戻った。身支度を調え部屋を出て、二人は若宮御殿から奥御殿へ続く回廊手前に入った。
屋根だけある吹き抜けの廊下の左右にも庭園がある。梅の花はもう済んだ。木には薄い緑の葉があり、地面の苔と共に春の朝の光があてられ、通る者の目を楽しませる。莉蘭は今までこの通路を数える程しか通ったことがない。
こんな機会でなければもっと景色を楽しめただろう。前回通ったのは一年半前の秋だった。第一皇女の姉が嫁ぐ前、彼女の親である后妃が祝いとして茶会を開いたおり、一応身内ということで莉蘭も招待を受けた。とはいえ誰とも話をせず、会場の庭の端で菊を見ていただけだった。あのときはこの廊下の両方は、紅葉の美しい彩りで飾られていたと莉蘭は回想する。
ところが莉蘭のその小さな楽しみも奪わんとする者が回廊の先にいた。
「あら、下賜品のおでましだわ」
鈴のようにころころ笑いながら、莉蘭の正面で声高に言い放ったのは莉蘭の腹違いの姉、黄綺であった。歳は三月ほどしか違わない。しかし莉蘭を妹として接したことなど一度もなければ、そもそも同格の人として扱ったことさえない。他の兄弟姉妹は、状況と程度の違いはあれど概ね莉蘭のことをまるでないもののように扱うが、黄綺だけはことあるごとに莉蘭に突っかかってきた。歳が近いのもあるのだろうが、彼女の母である第四夫人が、帝から寵を受けたと思った直後に、帝の興味が莉蘭の母へ移った恨みを受け継いだか。一昨年前から無闇矢鱈に莉蘭へ接触しては嫌がらせを行うようになった。
今も、こんな若宮御殿の端で用があったとも思えない。莉蘭の出立を聞いてわざわざ待ち伏せしたのだろう。
「まだ寒さも残るこの時期に、わざわざ挨拶に出てきて下さったとは痛み入る」
「あらいやだ。お前に会いに来たとでも? 自惚れるでない。わたくしは梅の花を愛でに出てきただけ」
「すでに散っておるようだが」
「……枯れた枝にも風情があってだな、お前には分からぬだろうが」
「枯れてはおらぬ。葉が出ている」
黄綺は大きな音をたて足を踏みならした。
「ええい煩い。これだから卑しい女は口だけは達者で慎みというものがない。……いいや」
黄綺はホホと意味深に嗤った。
「お前が達者なのは口だけではなかったのう。お前の母御と同じ体を使うのも上手だったわ」
莉蘭の目が据わった。黄綺は莉蘭の表情が変わったのを見て、持った扇子で口を覆い高笑いした。
「いや、お前は上手くはないのかもねえ。夜な夜な春を
「高価な着物を纏えるほど恵まれていても、そうでないものに嘘を言って蔑まねばならぬほど姉様はご自身の器量に自信がないか」
黄綺は固まり顔を引きつらせた。
「余計なお世話だろうが、姉様は少し運動をされた方が体によい」
とたん、莉蘭の顔めがけ扇子が投げられた。莉蘭は顔に当たる手前でそれを掴み、音を立てずに丁寧に閉じた。
「姉様も口で敵わぬと暴力で訴える野蛮な人と、こんなところで証明されぬともよかろうに」
「黙れこの猿女め! 野蛮なのはお前のほうじゃ! 皇女でありながら夜毎衛兵に体を売るような卑しい女のくせに! お前のせいでわたくし達まで穢れるわ! はよう出て行け!」
「言われなくともすぐにここを出ることになる。姉様方のご希望通りに」
莉蘭は扇子を黄綺の側仕えの侍女に手渡した。
「ところで姉上。青珊瑚はそのような透明な青ではない。それは玻璃であろう。せめて身につけられる装飾品が何であるかくらいの教養は身につけられた方がよい。今後余計な恥をかかずに済む。私からのせめてもの餞別として胸に納めてほしい」
去って行く莉蘭の背に、再度扇子が投げられたが次は届かなかった。
奥御殿と御上御殿のあいだには、帝の官吏が奥御殿より北に住まう帝の家族へ、この度のような報告がある場合に使用する小御殿がある。そこで莉蘭は奈瑠と、小御殿控えの女史等と待った。父からの──帝からの使者が書状を携え先触れを伴い訪れた。莉蘭は頭を下げその格好で待機する。挨拶から本題に入り使者は書状を読み上げた。
「演武会を開催せよと王命を承る。先の内乱を、無血制圧により収めた石澐将軍への賛辞、並びに、内乱の地へ赴いた兵たちを労えとある。将軍の効により戦が回避された故、兵たちの技を演武会で披露させよとのこと。最大の催しは実闘技となる。兵のみならず一般よりも参加者を募り、一対一の対戦を経て、勝ち残った者に褒美をとらす。褒美のひとつとして、第五皇女を、つまり莉蘭皇女を降嫁させよと、陛下は莉蘭皇女へ勅語を下された」
淀みない口調であった。まるで帝が娘を下賜することはよくある行事であるかのような。
昨日、街で読んだ触れは真のことであったのだ。
それでも街で触れを読んだときほど衝撃はなかった。あのときは自分が見ず知らずの男に下賜されるという事実に衝撃を受けていたが、今はそれを是と通した人物に対し
母が亡くなり、ただでさえ微少極まりなかった支えが皆無になったにも関わらず、父が一切己を顧みないことには慣れた、慣れようとしていた。
しかしここまで軽んじられているとは思いもしなかった。
降嫁などと言うが父にとって第五皇女は、娘は外交の駒ですらなかった。そもそも人と認識されているのかすら怪しい。
それを告げる手順も、正面で会って直接話さず、末席の家臣による詔勅というやりように、もはや失望を越え虚無の域に達する。
その程度の人物なのだ。この国の帝は。
吉日を待てと告げ使者は早々に去った。
今より五十年ほど前、楚は北の隣国、俳賓を制圧し支配下に置いた。
もともと俳賓は三つの少数部族からなる連邦国家の体制を敷いていた。放牧を主に生計を立てていたあまり豊かでない国であったのだが、ある地方に、まさに国の存亡を左右することとなった宝が突如見つけられた。
岩塩であった。
内陸でどうしても品薄になりがちの塩は金と等しい。価値あるそれを以て他国と渡り合い、豊かな国へと変貌せんと望んだ。しかしでは誰が指揮するのだと内輪で揉めているうちに部族間での信頼が薄れた。最後にはその隙を突かれ楚に攻め入られ俳賓は落ちた。奴隷の如く支配され、現在は命じられるままに彼らのものにはならない塩を採り続けている。
俳賓の民は自由を取り戻さんと何度か
楚は一部海に面しているものの海岸は険しく整備されておらず、昔は塩の自給率が低かった。俳賓を落とす以前は南の隣国からの輸入に大部分を頼っていた。今は俳賓で採れる塩がある。しかも楚の都は海よりも俳賓の方が近い。
そういう条件もあり楚は俳賓の塩を得ることで、益々栄えるかと思われたのだが。
流通を一部商人が貴族と結託し、市場を支配することにより膨大な利益を得ている。市井の民は塩を満足に使えず、隣国との小競り合いの度に税を取られ兵役も課せられ貧困に喘いでいる。
さらに先日の内乱で俳賓からの塩の流通は完全に止まった。かつて塩を南の国より運んでいた頃の方が、高値であっても自由に入手できていた。
民の不満は、不当に独占した塩で儲けた貴族の、飽食による肥満の腹に比例するように膨れ上がっていた。その貴族や、彼らを制御できない帝に対し。
石澐将軍は、立派な外見と快活な彼の逸話、この度の内乱の無血制圧にて民の人気が上がっていく一方で、その将軍と犬猿の仲とされるこの国の宰相が、帝の威を借り悪政を敷く古狸だと揶揄される。その個性の影に隠れ手綱も取れない無能な帝と非難されるのが、今上帝である莉蘭の父だ。
莉蘭に限らず誰にも興味を持たず、執政に熱心に関わる様子もなく、奢侈に溺れるということもなく、ただ連日御上御殿に籠もっていると聞く。
莉蘭が通達を受けた午後と翌午前、奈瑠は部屋の用事を成す以外、ずっと外に出ていた。莉蘭は心配しつつも黙々と手を動かしていたが、奈瑠は昼になって戻ってきたと思うと固い顔で莉蘭の前に座った。
「私の出来る範囲で今回のことを聞いてきました」
莉蘭は瞬く。
「無理をさせてしまったのでは」
「そんなことはありません」
奈瑠は微笑んでから表情を引き締めた。
「先日、内乱が勃発して将軍自ら出兵の指揮を取られ出立した直後、皇居に占者が招かれたそうです。そこでその人が今回の乱は無血制圧となるだろうと予言し、その通りになったので陛下はたいそう感服され、占者は皇居内での滞在を許されたとか」
莉蘭が目を見開いていると、奈瑠はそこから顔をしかめた。
「その後、その占者は数々のことを占ったそうなのですが、その一つに演武会を開催し目覚ましい活躍をした者に、褒美として第五皇女を降嫁させよと曰い、陛下はそれを真に受けられ実行されたと」
そんな戯れ言のようないきさつで己が物のように、誰とも分からぬ男に下賜されることとなるのかと、莉蘭は暴れたい気分になった。
「演武会と皇女の降嫁は、この国に吉祥をもたらすであろうと予言したそうです」
「吉祥。体の良い厄介払いをそう言うか」
莉蘭は鼻で笑った。
「そもそも、放埒な皇女だと噂のある私を、妻に望むような酔狂な殿方もおられまい」
「それが……もう多くの参加希望者が出ているそうです」
とうてい嬉しいと思えない報告であった。
「何の後ろ盾もない、ただ帝の血を半分受け継いだだけの小娘に価値などなかろう。まして、こんなふうに下賜される娘など」
吐き捨てた莉蘭に奈瑠は心配そうな目を向ける。
「莉蘭様」
「済まない。卑下してもどうにもならぬものを、つい」
「いいえ、お察しします」
真摯に同情を寄せてくれる奈瑠の想いがありがたい。莉蘭は首を振った。
「いや、もうどうしようもないことを気に病みたくはない。針を刺すことにする。幸いに仕事はある。奈瑠にも相談せねばならんと思っていた。受けているこの
今度は奈瑠が目を見開いた。
「そ、……そのようなことをご心配されていたので?」
「当然だろう。依頼を受けたものなのに未完のままで放置したくない」
「ですがしかし」
「まだ演武会開催の日が分からぬままであるが、刺繍の部分だけでもなんとか終えたい。だから今のうちに無理をしても進められるだけ進めておこうと思う」
奈瑠は絶句していた。気を取り直し、同情を大いに込めた目であるじに労りを示した。
「余り根を詰め過ぎませぬよう、お気を付け下さいませ」
「どちらにしろ毎日手を動かした方がいいと、奈瑠の大叔母は常に私にそう教えた」
「あの方は仕事の鬼だったのです」
そう言い返す奈瑠に笑った顔を向けながら、莉蘭は再び手元に集中した。
着物に針を刺していく。ひとつひとつ丁寧に。今は亡き師匠の教えを忠実に守り着物に絵を
現実が辛くとも、命の糧となるこの仕事を続けているときは無心でいられた。完成を見て達成感という贅沢品に浸ることもできた。
だが昨日から、いつもと違って集中し切れない自分に莉蘭は少し戸惑っている。先日の街に出たときの記憶が何度も脳内で繰り返される。
莉蘭は針を刺し続けようと努めたが、どうしても自分を助けた黒装束の男を思い出してしまう。その度に手が止まった。
結局仕事は進まず、莉蘭はとうとう手を置いた。奈瑠が用意してくれていた白湯を飲んでから、しばらくその椀を見ていた。
演武会のことが脳裏を
せめて己を勝ち取る男が、かのような強く気高い男でありますようにと願おうとして、苦く笑った。
現実はそこまで甘くない。描いた夢が現実になったことなど一度もない。
だからせめて嬉しかった思い出に浸ることにしよう。一生の宝として覚えていたい。莉蘭はあの日のことを反芻し始めた。
冷静に考えると、かの男の最後の行動は無礼な振る舞いである。とはいえ、そもそもの発端は莉蘭が仕掛けたからだ。
加えて情けないとは思いつつも嫌ではなかった。むしろ思い出す度に胸が躍るような気分になって落ち着かない。これまでにいろいろなことがあり、男性に対し嫌悪の感情を抱きがちだったのに、あの出来事だけは不愉快な思いがないのが不思議であり恥ずかしくもある。
布越しではあったが、確かに自分はかの美しい男から口付けを受けたのだと思うと息が甘くなる。
あの布がなければどんな感触だったのだろうと想像し、莉蘭は目を伏せた。頬が熱くなった。
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