第3話 布越しの
細い裏通りをいくつか抜け、人通りの多い、治安のいい場所にさしかかろうとしていた。男は足を止め莉蘭を前へ促した。
「ここまで来れば大丈夫だろう。あとは表を通っていけ」
大通りまででよいという莉蘭の言葉の奥を、行き場所を知られたくないという言外の思いを察してくれたらしい。莉蘭は彼に向かい合い丁寧に頭を下げた。
「過ぎるほど助けてもらった。本当に感謝している。何も返せないだけでなく、帯まで奪うこととなって済まない」
「……お前は」
「なにか?」
「いや、いい。この先は気を抜かずに帰れ。それから喉も労ってやれよ」
いまだに声の具合が戻らない莉蘭に含み笑いを見せ、彼は視線でも行けと示した。
だが莉蘭はその男の左手を取った。彼は振り払わず、どうしたと問うように莉蘭を見てくる。それを莉蘭は自分に都合良く、不快と思われていないのだろうと判断した。
大胆なことをしている自覚はある。何が自分にそうさせたのかは分からない。けれど二度と会えないのであれば、だからこそ伝えたいと思った。
顔を覆ったままの、布越しではあったが、彼の指の根元に唇を添え感謝の意を示した。
「あなたに天のご加護がありますように」
相変わらずしゃがれた声しか出なかった。しかしきちんと聞こえたようで、対峙の男は目を見開いた。
「俳賓の出身か」
ふと、彼は口角を上げニヤリと笑んだ。いたずらを企んでいるような顔をされ、莉蘭が意外に思い気を取られた隙に、男は一気に距離を詰め莉蘭に顔を寄せた。
視線が交錯し、男の光彩が全くの黒でなかったことに莉蘭は気付く。一瞬煌めいたそれは青のように見えたのだが、それをはっきりと認める前に顔が重なった。
それはやはり布越しであった。が、莉蘭の唇のある場所に男のそれがそっと押しつけられ、すぐに離れた。男は、びっくりしたままの莉蘭の体をくるりと回して背中を軽く押し、彼女を大通りに出した。
「気を抜くなと言っただろう」
莉蘭が首だけで振り返った時には、もうどこにも男の姿はなかった。
それから一刻半かけて莉蘭は自分の住処へ戻ってきた。顔を覆っていた布を解くと、蒸れて火照っていた頬に外気が触れる。若芽が美しく彩る早春の、夕方の少し寒い北風に顔を撫でられ、一息つきながら植垣に沿って歩いた。
その奥に小さな庵があった。侘しい風情だが、朽ちてはいない。扉の前に立ったとき、背側で音がして莉蘭は振り返った。
黒い人影が見えた。
荒れ果て手入れされていない木々のあいだに、黒の外套を纏った成人の男がいた。荒削りの岩のようながっしりした顎と顎髭、口元の皺でそう判断したのだが、日がほぼ落ちた現時刻では、頭まで覆われた外套の陰で相手の表情が分からない。油断していた莉蘭は、ここまで近くに人がいたことに気付いていなかった。
「第五皇女の莉蘭様ですね」
硬直してしまった。すぐに、そのせいで呼びかけが真実であると雄弁に語ってしまったと悔やむ。否定しても信じてもらえまい。莉蘭は黙って身構えていた。
そのとき、彼の袖口からすうっと黒い塊が降り、莉蘭は息を詰めた。黒装束の男の体の一部が突如剥がれ落ちたかのように錯覚したが、その塊は男の足に寄り添っている。
黒猫だった。
「これは失礼」
男は笑ったような声でそう詫びた。だが表情が見えないので、顔が笑っていたのかどうかは分からない。それがむしろ怖い。
「驚かせたようで申し訳ありません」
男が近付いてきたら逃げようとは思ったが、彼は莉蘭に体を向けてはいても、そこから動こうとしない。
「是非一度お会いしたいと思っておりまして、不躾とは思いましたが、こちらで待っておりました。叶いましたのでこれにて失礼致します」
男は深くお辞儀をし、足下に黒猫を伴ったまま、言質の通り木の向こうに消えた。影を目で追うと彼は南の方へ下がっていった。
誰か分からないが、この場所は帝の身内以外が簡単に来られる場所ではない。しかも莉蘭は、身分は皇女といえどほぼ忘れられたような異端の存在だ。なのに一瞥して、顔こそ露わにしているが市井の少年のような格好をしている彼女を、第五皇女だと認識した。かなり皇室の事情に詳しい者だろう。
足音が聞こえなくなっても莉蘭はしばらくそこにいた。周りに人の気配はしないが、莉蘭は付近の生き物の存在をはっきり察知できるほど感覚が鋭くない。ずっとここに立っているわけにもいかず、莉蘭は庵の中へ急いで入り、中から戸を固定した。
「莉蘭様!」
帝の実子、皇子皇女が住む若宮御殿の一角、北の端に莉蘭の部屋はあった。莉蘭が静かに入ると、唯一の側仕えである奈瑠が莉蘭を出迎えてくれた。
「ああ、ご無事でよろしゅうございました」
「大丈夫だ。もう何度も外には出ているだろう」
「そうは仰いますが、待っている方は気が気ではありません」
さもありなんと思うが、ここで同意すると奈瑠はさらに今後の莉蘭の外出を渋るだろう。しかも今日は厳密に言えば全く無事ではなかった。
「莉蘭様、酒精の匂いが致しますが」
「すこし浴びてしまった」
「あとで体を拭く。それより奈瑠、南から使いは来ているか?」
奈瑠は目を見開いた。
「そうです。その事をお伝えせねばと思っておりましたが、何故」
莉蘭は苦く笑う。
「奈瑠。私も今日、正気とも思えぬものを街で見てきた」
「正気とも思えぬもの?」
侍女の怪訝な問いに主人が答えた。
「私は下賜されるらしい。誰とも知れぬ男に」
奈瑠は顔をしかめた。はい?と強ばった顔で莉蘭を促す。
「街で触れが出ているのを見てきた。そこにあった。近々演武会が開催され、勝ち残った者への褒美として第五皇女が贈られるらしい」
いっそ淡々とした説明に、奈瑠はまずぽかんとした顔をした。
「まさか」
「可笑しいだろう。下賜品である第五皇女の私が、その内容を父帝から知らされるより先に、この楚の国の民が知っているのだぞ」
楚という国がある。
いにしえには火を扱う大蛇が、多くの厄災をもたらした。一人の皇子がそれを退治せんと挑んだ。一度は大蛇に飲まれたが、しかしその腹を斬って火をも制した。大蛇を倒した皇子が、初代帝となられたとの逸話のある国である。
国土の中心よりやや北東の位置に、帝の住まいとなる皇居がある。
皇居、南の正面正門から入ると、午庭と呼ばれる庭が広がる。午庭に面した北に祭事と執政が行われる希廻殿が、希廻殿の東には賓客をもてなす藍連殿がある。藍連殿の東から北は広く庭園が整えられ、最奥は小高い丘になっており、楚の国を起てた皇子の碑が祭られている。皇子の碑の下を頭部とみなし、そこから東西に長い蛇が横たわっているかのように、皇居の北は東西に続く山となる。平坦な地から突如盛り上がった山裾に皇居が存在する立地となる。
希廻殿と藍連殿より北、皇居中程に帝の住まいの御上御殿が、さらに北には帝の妻である后妃たちが住まう奥御殿と、そこから廊下続きになって皇子皇女らが住まう若宮御殿が存在する。
若宮御殿には現在皇子皇女が合わせて四人、その帝の子らに仕える侍女がそれぞれに数名付いて暮らしている。皇子は二人、皇女は莉蘭を含め二人。長女はすでに嫁いで御殿を出ている。かつ昔に夭逝した子二人は若宮御殿に移る歳の前に亡くなった。亡くなった皇女たちは順序としては莉蘭より先に産まれていた。故に莉蘭が第五皇女となる。
歴代の帝を見て子の数としては多くもなければ少なくもない。部屋数に余裕があるが、それにも関わらず莉蘭の住まいは隅に追いやられている。追いやられている、というのには少々語弊がある。莉蘭には数部屋を維持するだけの財力がない。
母はすでに鬼籍である。父はないようなものである。莉蘭にあるのは己の技と、忠信な侍女の奈瑠だけである。
その奈瑠が主人の気持ちを
「明日午前に、奥御殿の正面まで来るようにとのことです」
「分かった」
いよいよ宣告されるのだろう。しかし明日いきなりそれを告げられるより、こうして前もって知っておけたのは、まだ傷が浅かったのではないかと思える。少なくとも宮中の者に対し
「ところで気になっていたのですが、莉蘭様。その黒帯はどうされました?」
譲られた黒帯は庵で乾かす必要もなく自室まで持ってきたのだが、奈瑠の目に留まった。興味津々に尋ねられ莉蘭は言葉に詰まった。それで察せられた。
「何か私に言い辛い、よくないことが街に降りられた際にあったのですね」
「……その」
「お話し下さいませ」
莉蘭はなるべく大事ではなかったかのように事実を述べたが、奈瑠には通用しなかった。奈瑠は黙って眉をつり上げた。
「こうして無事帰ってきたのだ。大したことではない」
奈瑠は大仰にため息を吐いて、しかし口調は優しいままで莉蘭に問うた。
「お怪我はございませんか?」
「その傭兵らしき御仁のお陰で傷一つない」
「不幸中の幸いでしたが、いつもそのように運良く運ぶと思わないで下さい。私が心配で寝込みそうです」
奈瑠は恨めしい声で莉蘭を牽制し、莉蘭の持った帯に視線を移した。
「よい帯ですね」
「ああ」
莉蘭が黒帯を奈瑠に渡すと、彼女は手にとって目を凝らした。
「恐らく南の国の意匠ですね。この辺りの模様とか特徴的で、都付近の店では扱ってない代物です」
「さすがだな。奈瑠のその目利き、私も持ちたいと思っている、だから」
「だから秘密の外出をもっと許せと仰るのですか? そうは参りませんよ」
ちらと再度、奈瑠は主人を睨め付けた。すぐに気を取り直し帯を繰って眺めていく。
「これだけの刺繍ですので、私の家の者に聞けばどの辺りの出かもう少し詳しく調べられるかも知れませんが、何故その美形の傭兵さんに渡ったのかは追うのは難しいでしょう」
「……美形?」
そこまで詳細を語っていない。対して、奈瑠はふふっと照れ笑いを浮かべた。
「莉蘭様が、随分熱心に似合っていたと仰っているので。これを着こなせる殿方はかなり裕福で貫禄のある御方か、もしくは類い希な男前に違いないです。平凡な方が身につけたら帯に負けるので……あ、ここがほつれています。使用劣化でしょう」
莉蘭も奈瑠が指摘した場所を確認した。確かに刺繍が切れて模様が分からなくなっている。
「本来はそんな傭兵さんが戦場で身に付けるようなものではないのですが」
奈瑠は少し非難がましい口調で呟いた。莉蘭はそれをなんとなく不快に感じ、顔を曇らせて言い返した。
「元に持っていた者もそれを承知で彼に渡したんだろう。買った者の自由だし使い方も持ち主の自由だ」
莉蘭の反論の最中で奈瑠は目を見開き、言い終わった時には彼女は袖を口に当て笑みを隠していた。
「誰とも知れぬ殿方を随分熱心に庇うのですね」
莉蘭は顔を赤くして奈瑠から視線を外した。
「そろそろ奥へ参りますか」
莉蘭は同意し二人は立ち上がった。部屋の端の、一見、板壁のように見える扉を──先刻、莉蘭がここに戻ったときに開けたそこを奈瑠が開く。
細い隠し廊下を通り、奥の鍵が掛けられた格子戸の前にきた。先に立っていた奈瑠が格子戸を押した。大きな錠前で鍵掛けられた側は開かない。しかし劣化した根元の方がぎいときしんだ音を立て、人一人通れるほど開いた。そこを抜けてまた廊下を進む。廊下は途中で二叉に分かれている。一方は南の方角へ向かう。恐らく奥御殿に繋がると莉蘭は推しているが、確かめたことはない。二人は東の方角へ進み屋外へ出た。そこから迷路のように植わっている植垣を通り抜け、先ほど莉蘭が通過した庵に辿り着き、二人は中へ入っていく。
炊事もできる土間を抜け上がり、前室で奈瑠がぺこりと頭を下げた。
「お休みなさいませ」
「お休み」
莉蘭はさらに奥の部屋へ入った。四方が本棚で、ところ狭しと詰め込まれた書物と、部屋の中央に机と寝台だけがある質素な部屋であった。そこの寝台に莉蘭は潜り込む。
横になって莉蘭は目を閉じた。
おおよそ皇女とも思えない苦しい生活をしている。自分だけならまだしも、侍女の奈瑠にまで辛酸を嘗めさせている不甲斐ない自分が嫌になる。
莉蘭が夜に不在であることは、若宮御殿と奥御殿の面々には知れているのだろう。指摘されないのは、母もなく後見も皆無の第五皇女など、どこでどう過ごそうと誰もがどうでもいいと思っているからだ。
もうひとつ言えば、兄姉や彼らの母たちに都合のいい偏見と悪意を、真のように広められるから。
触れを見ていたとき、隣で触れの内容を知った者が笑っていた。
──第五皇女は淫乱が過ぎて、どこにも貰い手がなかったか。
嫌なものを思い出してしまい、莉蘭は敷布に額を埋めた。
父は、娘がどのような目に遭っていようと気にすらかけない。
この先どのようになろうとも。
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