第2話 黒帯の男
男は莉蘭を抱え、人のあいだを縫って駆けている。人一人を抱えているとは思えないほど速いがしかし、追ってくる者たちより、例え彼らが酔っていたとしてもまくことができるだろうか。
二人は路地裏に入り込んだ。男は角を出たところで右に棍を振った。がらがらと重ねていた桶が転がり落ちていく。そうして振り上げた棍を、彼はその勢いのまま左側の塀の向こうに投げ入れ、莉蘭を抱え軽々左の塀を越えた。こちらは一連の動作に衣擦れの音しか出さない。塀の向こうに降り立った衝撃を、男の体越しに莉蘭も受けたが軽いものだった。男がしゃがみ、その腿の上に莉蘭は腰掛ける状態で二人は静止した。
追ってきたらしい男達の足音が聞こえる。緊張した莉蘭の肩をあたたかい手が撫でた。下心らしい厭らしさは一切感じられず、純粋な励ましのように少なくとも莉蘭には思え、応えたく静かに呼吸をするよう努める。桶が転がる大きな音がした。
そのとき、さっきの男たちに掴まれ押し倒された嫌悪感と恐怖が、莉蘭の中で突然に反芻された。そうはならなかったとはいえ、最悪の事態を脳裏に描いてしまい莉蘭が背中を震わせると、肩が引き寄せられた。心地よいきつさの中に安息があるような気がして、莉蘭は男を掴んでいる手に力を籠めた。目を閉じて体に伝わってくる温もりに集中する。
やがて足音も遠くなり辺りは静かになった。
だが莉蘭は解放されず、黒装束の男に抱き留められているままである。莉蘭が離れようとすると、男は腕を緩めてくれた。しかし全ては離さず、莉蘭の顔を覗き込み、人差し指を自身の口に当てた。黙っていろという指示に莉蘭はうなずく。彼は様子を探るよう顔を横に向けた。莉蘭は、自分を助けてくれた男の横顔を改めて観察する。
近くで見ても男は端正な顔をしていた。露わな額の下、太くまっすぐの黒眉と同色の黒い目、すっと通った鼻筋に、意思の強そう、言い換えれば頑固そうな口が相応しい場所に収まっている。この地に住む者たちより掘りの深い顔をして、珍しい髪型が似合う典雅な風貌をした、莉蘭より歳が少し上くらいの若い男だ。その彼が、一途な視線に今気付いたかのように莉蘭に顔を向けた。
「大丈夫だ」
顔を隠すために巻いた布越しに、深い男の声が莉蘭の耳に届く。相手の襟を掴んでいる指が少しだけ震えた。
「もうあいつらに会うことはない。俺がお前の望む場所まで送ってやるから怖がらなくていい」
あたたかな労りの口調に、莉蘭はため息を
「……おい泣くなよ?」
妙に怖々と聞かれて、莉蘭は思わず口元だけで笑ってしまった。
「泣いていない」
泣くということなど、もうどのくらいしていないか思い出せない。泣いて解決することなど何もないことを莉蘭は身を以て理解している。
「ならいい。頼むから泣くことだけは勘弁してくれ」
言いようが面白くふふふと声が出てしまった。それとは逆に目前の彼は眉根を寄せた。
「お前酒臭いな」
おもむろに言われ、莉蘭は一気に沸いた羞恥で、反射的に男の胸に手を突いて離れようとした。だがそれより速く男が動き莉蘭を一瞬で止めた。
「急に動くな。ここはそんなに広くない」
「だって、あなたが」
「酷い声をしているがそれは酒焼けか? そんなに呑んだのか?」
「呑んでなどいない。呑まされそうになって、咽せて上着にこぼしてしまったから」
「そういうことか。まっすぐ立てそうか?」
黒装束の男は莉蘭の両腕を取り、彼自身が立ち上がりながら莉蘭も一緒に立たせてくれた。男は莉蘭より頭ひとつほど背が高い。
「大丈夫か?」
「問題ない。あと言わねばならぬことがある。さっきは言うひまがなかった」
沈んだ物言いに男も表情を引き締めた。
「なんだ?」
「助けてもらったが、私はあなたにお礼の言葉を言う以外になにも返せない」
莉蘭は真面目な気持ちで現状を述べたのだが、相手は顔を歪めた。
「俺が見返りにお前の体を要求するとでも?」
「そういうことを言っているのではない。本来ならあのような人を守る技には、それ相応の金子が支払われるはずだ。あなたが長年の努力で培った高い技術に対し、相応しい対価を示せないのが申し訳ない」
莉蘭の口調から忸怩な思いを感じ取ったのか、男の顔から怒りこそ消えたが、次は不思議なものに出会ったかのようなそれを見せた。
「いつもそんな堅苦しいことを考えているのか?」
「堅苦しいのだろうか? 私は大切な人に沢山助けてもらっているのに、自分がほとんど何もできないから何も返せないのが切ない。本来なら私こそが皆を守らねばならぬ立場にい……」
莉蘭はそこで口を閉じた。
「守らねばならぬ立場ねえ?」
莉蘭は男の視線から逃げるように顔を背けた。男の棍は計算したかのように傍に立てかけられた状態になっていて、彼はそれを手に取った。
「それを言うなら別に俺も大したことはしていない。酔っ払いから逃げることは簡単だ。助けたお嬢さんにありがとうと言われたらそれで十分俺も報われる」
莉蘭が見上げると彼は微笑んでいた。
「本当にありがとう。助かった」
「どういたしまして」
莉蘭は彼の顔に魅入ってしまった。相手も莉蘭の目を黙って見つめていたのだが、ふと真顔になり、下方にゆっくり視線を移動させ、しばらくそこを凝視し続けた。
男が何をまじまじ眺めているのか気付いた莉蘭は体を引こうとして、またも先に動きを制された。
「だから急に動くな。壁にぶつかるぞ」
「見ないで!」
「悪かった。行きがかり上見ただけだ。わざとじゃない」
「だとしても長時間見る必要などないだろう!」
「必要か否かで言うなら俺にとっては必要だぞ。美しいものに目を止めるのは俺の性分でな。余りに綺麗な胸の曲線だったからつい見惚れた。……悪かった、こら暴れるな」
それでもしばらく莉蘭は必死に腕を動かしたが、びくともせず離してもらえなかった。莉蘭は無言のまま、正面を隠そうと身を捩りながら男を睨み付ける。
「気の強いお嬢さんだな。手を離すが暴れるなよ」
男はニヤリと笑いながら手を離した。莉蘭は前身頃をかき合わせる。
「帯を取られたままだったか」
彼は壁に棍を立て掛け、自分の帯を解き始めた。黒装束の中で唯一有彩の豪奢な帯──黒地に紺と薄茶、ひときわ目を引く渋赤の糸で凝った模様が施されたそれを、莉蘭の前へ差し出した。
「これを使え」
「……は?」
余りのことに二の句を告げないでいる莉蘭に、彼はずいと帯をさらに差し出してくる。
「気に入らなくても我慢してくれ」
「そ、そうではない……」
莉蘭はぶんぶんと首を振る。男はなんだと言わんばかりに目を細めた。
「それは見ず知らずの者にそんな簡単にやってよい帯ではない。かなりの逸品だ」
男は帯に視線を送り、莉蘭の手を取って帯を持たせた。
「そうなのか。俺には分からない。ならばなおのこと価値が分かる者が使えばいい」
莉蘭はそれでも逡巡したが背に腹は代えられない。仕方なく持たされた帯を締めた。男の方は着物の下で腹に巻いていた布をほどこうとしている。帯代わりにするつもりらしい。彼の鍛えられた裸の胸と腹が、開いた前身頃の中で見えてしまい、莉蘭は勢いよく顔を逸らせた。
「……ごめんなさい。見るつもりはなかったのだ」
「俺の腹は美しくなかったか」
「そんなこと……聞かないでくれ、分からない」
笑っているような気配がしたあと、続けて「俺の腹は帯に負けたか」と軽い揶揄を投げられた。
男の動きが止まったところで莉蘭は彼に顔を向けた。着物の下に手首までの手甲を纏い、手には小手、足は脚絆を装備しており、豪奢な帯がなくなって、いかにも旅装束という格好になった。棍と、莉蘭をならず者たちから取り返したときの手腕、この身体能力、恐らく彼は旅の傭兵なのだろうと莉蘭は推した。この国は最近、北で内乱があった。その鎮圧に参加していたのかもしれない。
にも関わらず、彼にはまだ雅やかさがある。不思議なひとだと莉蘭は思う。
不思議といえばさらにこの男の心根もだ。莉蘭はほとんど男性に接したことはなく、しかも傭兵というどちらかといえば荒々しい職のそれになると、見たことさえなかった。それでも彼はあり得ないほど親切にしてくれていると莉蘭でも分かる。
このように見ず知らずの人間に助けられることも、安全な場所まで送ると申し出てもらえることも、高価な帯を惜しげもなく譲られることも、おそらくよくあることではない。
こんなにも素敵なひとが──それを意識すると緊張してきた。莉蘭は考えないようにしようと目を閉じ、彼に頭を下げた。
「ありがとう」
「ああ」
二人は莉蘭の腰を、黒の帯が巻かれたそれを見た。
「なかなか似合ってるぞ」
褒められたが、自分の格好はまったくちぐはぐで、絶対にそれは世辞である。莉蘭は顔を覆った木綿の布の下でくすりと笑った。
「あなたの方が似合っていた。まるであなたの為に作られた帯のようだった」
男はわずか目を見開く。
「価値が分かるか否かより似合う者が愛用して使うのが、その方が帯もそれを織った者も喜ぶに違いない」
ひっそり、己の経験談も混ぜて語った。
男は不意に破顔した。実に嬉しそうな顔をしている。何が彼の琴線に触れたのか分からなかったが、突然見せたくだけた笑顔にまた魅せられる。
なんという日だろう。今日は、先ほどまで、自分のこの先にいいことなど決してないと思っていたのに。
この男と会って、彼の笑顔を見ることができて、それだけでここまで歯を食いしばり生きてきてよかったと思えてしまった。
「行こう」
男は笑顔を残したまま、棍を持ち莉蘭を促した。時折通路ではないような場所も通過しながら、男はゆっくり歩き常に莉蘭の様子を気遣ってくれていた。
「どこまで送って欲しい?」
「……大通りまで」
そこで大丈夫なのかと彼は聞いてきた。莉蘭が肯定すると、男はそれ以上深追いしてこなかった。
「花街に迷い込むほどに何を考えていた?」
「え?」
「普通の精神状態なら、大通りを歩いてここまで入り込むことはない」
莉蘭は黙り込む。
あの触れ、あんなものが、自分の知らないところで。
広場に掲示されていた、国から出された触書を読んだとき、まさかと思った。何度も読み返し、意味をはき違えたわけではないと理解すると視界が暗くなった。気分が悪くなり、腐心が過ぎてそれに気を取られているうち、ああして花街に迷い込んでしまった。
「言えない……というより、どう言えばいいのか分からない」
「俺もなんとしても聞きたい訳ではないが、この辺りは物騒だぞ」
「それは」
「どんな成りをしていたとしてもだ。お前、最近この辺りで辻女が斬り殺されたのを知っているか?」
莉蘭は息を飲んだ。辻女というのは遊郭に所属していない、通りで相手と交渉し体を売る女たちの俗称である。昼に大通りを歩いたおり、民の話題は北の領土で石澐将軍が乱を収めたというものと、辻女が立て続けに二人斬り殺されたという、その二つで持ちきりだった。以前にも野良犬や猫などが斬り殺されることがたまにあったのだが、とうとう人に及んできたかと民は不安がっている。
「知っている」
「ならさらに迂闊すぎるぞ。大通りを歩いているときも気を抜くな。特にお前のような若く世間知らずな女は」
男の説教は全て的を射ている。言い返すことなどできず莉蘭は素直にはいと返事した。
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