皇女、演武会の褒美となりて降嫁す 〜オオキバドロバチの婿取り〜

前原よし

第1話 昔話〜花街にて


 少女は祖母に昔話をせがんだ。大好きな蜂のお姫様のお話を。

 祖母は微笑みながら、孫に何度も語ったそれを、また今日も繰り返す。

「昔、楚という国に蜂のお姫様がいました」




◇◇◇




 際どい場所を歩いていると気付いたのは、すでに花街に入り込んでいた後だった。

 木造家屋の入り口付近では、赤く繊細な構造の格子が嵌められている。その向こう、大胆に開け放たれた襟に、白い首と胸元を見せしどけなく横座りする遊女たちがいる。うち一人が莉蘭りらんを認めて、扇子を仰ぎ手招いた。

 よりによってと自責しながら、莉蘭は来た道を引き返そうとした。周りの人々から注視されていることにも気付く。当然だろう、今の自分は布で顔を隠した上、腿までの着物に小袴という市井の少年の格好をしている。子供が花街にいるなど場違いにも程がある。莉蘭は喉が引きつる感じを堪えながら、顔を伏せ駆け足で去ろうとした。

 しかし焦っていきなり足早になった行動が、さらに目を引くことになった。

「あら、可愛らしいお客さま」

「坊主、いい女の探し方を教えてやろうか?」

 笑う男女を無視して人のあいだを抜けようとしたが、突然手首を掴まれた。強い力で引かれ、咄嗟に踏ん張ることができず、簡単に体を持っていかれる。大きな体に抱え込まれ、すえた酷い匂いが莉蘭の鼻を突いた。

「離して」

「小僧、女を抱きに来たんだろう?」

 莉蘭を捕まえたのは酔った大男だった。嫌がる莉蘭を意に介さず家屋に、女郎屋の中に連れ込む。そこには同じように酔った男達が数人いた。

「おい、小僧が筆降ろしに来たぞ。歓迎の酒を振る舞ってやれ」

 莉蘭を掴んでいる大男の声に、屋内にいた男女は一斉に笑い出した。莉蘭はうらなり顔の男とあばた顔の男のあいだに腰掛けさせられる。逃げようとしたが、両肩を押さえられ腰を上げることもできなかった。

「まあ景気づけに呑め、ほら」

 誰かが注いだ酒を出された。頑なに受け取らずにいると、顔を覆っている布を下げられ、口元に椀を宛がわれた。いきなり口に注ぎ込まれた酒はきつく、これまで一度も飲んだことがなかった莉蘭は、酒精の匂いに咽せ全て吐き出す。椀に残った酒も、全て莉蘭の胸元に浴びせられた。

 気管に入ってしまい莉蘭は咳き込んだ。またも皆が大声で笑っている。莉蘭は咳をしながら、前へ屈んで口元を布で覆った。こちらはまださほど酒に濡れなかったようだが、胸に零れたものが気化して莉蘭の胸を悪くする。咳をしているのか餌付いているのか分からなくなってきた。

 莉蘭の隣のうらなり男が、莉蘭の着物の襟を乱暴に掴んだ。

「おいおい、大事な酒を吐くんじゃねえよ、さあもう一杯……」

 相手はそこで言葉を切り莉蘭の首元を、襟の奥に覗いた膨らみを凝視した。莉蘭は慌てて襟を引いた。うらなり男は莉蘭の襟を簡単に手放したが、しかし見たものはしっかりと認識したらしい。鼻息荒くもう一度莉蘭の襟を掴んだ。

「こいつ女だぞ!」

 とたん、莉蘭は床に押し倒された。あばた顔の男によって莉蘭の帯が解かれ、上着の着物の襟が開けられる。下に肌襦袢を着ていたが、薄いそれのさらに下にさらしを巻いていても、莉蘭の胸は存在を主張していた。

「おうおう、いいもん持ってるじゃないか」

「離して」

 全力で抗うが両腕の束縛は解けなかった。

「女がこんな格好でこんなところにいるってことは、遊女になりに来たんだろう?」

「違う!」

「どれ、俺たちが最初の客になってやるよ」

 ニヤついた笑みや、舌舐めずりと共に投げられた言葉の意味を理解し、莉蘭は全身総毛立てた。逃れようと足掻いたが、莉蘭を掴む男たちへの微塵の抵抗にもならない。

 奥で女が「やめてやんな」と軽く諫めたが、彼女の語気にもきつく止めようという意思は感じられない。莉蘭が可愛そうだとは思っているが、男たちと争ってまで助けてくれるほど、莉蘭に肩入れなどできないのだろう。うらなり男は下卑た笑い声を立て、莉蘭を引きずり上げた。

「遊女ではないし成りたくてここにいたわけじゃない、離してくれ!」

 莉蘭の言い分も、彼らは酔いで聞いているのかどうかも怪しい。

「可愛がってやるよ、おねえちゃん」

 耳に囁かれ恐怖で身が固まりそうになった。ここで抗うことをやめたら絶対に助からない。気を奮い立たせ腕を引こうと努力をした。

「やめてやんな!」

 先ほどと同じ女が再度、さらに強い口調で声を上げた。しかし大男が怒鳴り、彼女は身を竦ませる。それに調子付いた男は彼女を小突いた。彼女は倒れこそしなかったが、よろめいて壁に手をついた。

 それらを見て、莉蘭は口をきっと結んだ。莉蘭の表情の変化を眺めながら、あばたの男が顔を寄せてくる。

「俺のモノはなかなかだぜ」

 男たちの身勝手さに、莉蘭の中で占められていた恐怖が消えた。代わりに猛烈な怒りが湧き出てくる。

 空気を斬るようにその感情を発散した。

「ふざけるな! 本当になかなかのモノとやらを持っているなら、こんなところで遊女相手に威張り散らさず、とっくにいい女を捕まえているはずであろう!」


 腹の底からの怒声に屋内はしんとなり、皆が莉蘭を見た。莉蘭は隣に立つ男たちの鼓膜を破るくらいの勢いで再度声を張り上げた。

「お前達の中で誰か一人でも一度でも女に好かれた者がおるのか。おらぬだろう。当たり前だ。弱い者に暴力を振るうような下劣な真似をして、男の価値をお前たち自身が下げているからな!」

 莉蘭の発言にまず我に返ったのは女達だった。遊女等が一斉に大声で笑い出した。「その通りだよお嬢ちゃん」と誰かが手を叩くと、遊女皆がそれに倣って拍手を始めた。そこであばた男が顔を赤くしていきり立った。莉蘭の手首がさらにきつく掴まれ、莉蘭は顔をしかめる。

「離せと言っておる!」

「可愛がろうとしたがやめだ。泣かせてやる」

 莉蘭はあばた男の、酒に濁った目を睨み付ける。

「口で敵わぬから力で訴えるというのか。相手と同じ土台にすら立てぬ腑抜けと自覚しておるのか。だからお前たちは独り立ちすらできず集団で弱者をいたぶるのか。その悪循環から脱せねばこの先一生女に好かれぬままであるぞ」

 莉蘭の返しに他の客が失笑している。

「こいつ……!」

 あばた男が手を振り上げた。

 彼の手が上がりきったところで、その手首がさらに後ろから掴まれた。

「お嬢さん、口が立つのは分かったからそのくらいにしてやれ」

 若い男の声が部屋に通った。さほど大きな声ではなかったが、妙に通る明朗な声だった。皆が莉蘭の啖呵に気を取られていて、その声の主がいつ軒を通り中に入っていたのか、誰も気付かなかった。

 そしてその男の姿を見て、皆が再度言葉をなくした。

 髷をきちんと結っておらず、前と横の髪を後ろでくくって、後方の長い髪を全て背に流している。その髪型だけでも意表を突くのだが、彼の格好も少々奇異であった。旅装束そのものは普通であるが、全身黒尽くめというのは珍しい。さらに腰の黒帯は、美しい意匠の刺繍が施されたかなりの逸品と莉蘭には分かった。身分の高い者が、しかも祭りや祝いで着飾るときに身につけるような物で、決して旅着として作られた帯ではない。なのにそれはその男に似合っていた。

 彼が希に見る美丈夫で、その帯に見合うだけの器量をしていた。それが最も皆の意識を集めている。

 彼は右手に握った、成人男性の身丈ほどの棒──こんを僅か手前に引いた。

「何があってこの酔っ払いどもに喧嘩を売っているんだ?」

 あばた男の手首を取っている棍の男は、莉蘭に目を合わせ気楽そうに問うてきた。莉蘭は否定の形で首を振る。

「喧嘩を売った覚えはない。こやつら私を遊女と勘違いして私を慰み者にしようとしておる。何度もそうでないと言っておるにも関わらず聞こうとしない。それを止めようとしてくれた、奥の彼女等にまで暴力を振るうから叱責しただけだ」

 そうだよと遊女達が莉蘭を庇った。煩い、黙れと奥に立っていた大男が周りにまず怒鳴り、莉蘭を捕らえている男たちにも奥へいくぞと大声で指示をした。

「離せ、私は違うと言っているだろう!」

 黒装束の男は莉蘭を覗うように首を傾けた。

「遊女ではないのか?」

「違う」

 最初に莉蘭を捕らえた大男が怒鳴った。

「おい兄ちゃん、女を離せ。お前には関係ない。こいつは俺たちが買った!」

「買われてなどおらぬ!」

 莉蘭を捕まえている二人は、黒装束の男を無視して中へ続こうとした。

「待て。彼女は違うと言っているぞ」

「この女の嘘だ。金だけ奪って同情を買って逃げるつもりだ」

「お前たちこそ嘘を付くな!」

 黒装束の男が顎を引いた。それだけで一瞬、莉蘭の傍の空気が重くなったような気がした。

「彼女を離してやれ」

「煩え、そう言いながらお前は俺たちからこの女をかすめ取るつもりだろう!」

 大男の怒鳴り声に対し、黒装束の男は鼻で笑った。

「俺が、わざわざお前たちの取りこぼしを狙わねばならんほど女に窮しているように見えるか?」

 遊女らが大きな声で笑った。腹を抱えて笑う女の隣で、お兄さんあたしなら喜んであんたに抱かれるわあと手を振る女まで数人いた。彼は持った棍を軽く振って応えている。

「やかましい、もういい、行くぞ!」

 莉蘭を掴んでいる男二人も足を出そうとした。あばた男が黒装束の彼の、黒の小手に包まれた手を振り払おうとする直前、突然手がひるがえった。

 あばた男の手が、棍の男によってねじり上げられた。あばた男が莉蘭の手を緩めたのと同時くらいに、うらなり男は肘を下から棍に打たれた。男二人が痛みの声を吐き、莉蘭の両腕は解放された。黒装束の男は既に空いた左手で莉蘭の腕を強く引き、莉蘭が彼の胸にぶつかる手前で身を屈め、彼女の膝裏に腕を回した。

 莉蘭の視線が急に高くなり、反射で男の肩を掴む。何が起こったのか理解する前に莉蘭は黒装束の男に抱き上げられていた。

 莉蘭はもちろん、屋内の全員が目を見開く。皆が、一瞬で莉蘭を奪取してしまった男を見た。

 黒装束の男はひょいと軒をくぐり表に出た。軽々と人のあいだを抜けていく。屋内から待てとがらがら声が聞こえた。

「どうしてあんなところにいた?」

 気安く尋ねられ莉蘭は素直に返事をしてしまった。

「考え事をしていたら、迷い込んで……」

「間抜けだな」

「言われなくても分かっている」

 男は笑った。

「分かったもういい。達者な口を閉じて俺の首に掴まっていろ」

 後方から莉蘭を捕らえていたならず者たちが、二人を追いかけながら吠えてくる。黒装束の男は角を曲がった。急激な移動に莉蘭は目をくらませ、言われた通りに男の肩にしがみついた。

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