第30話 ボクちゃん 30 思案
ボクちゃん 30
思案
ある日の午後、山岡先生がポツリとつぶやいた。
「先生というのは因果な職業だ」
僕は山岡先生の、この言葉の真意がよくわからなかった。
昔のことを考えれば、教職とは聖職と言われて、まわりの人からは尊敬の念で見られていた。
地域の人々、父兄、全員が先生に対して従っていた。協力体制も整っていたと思える。
ところが現在ではそうはいかない。
糾弾がきついのである。
しかしこの町では先生というものはやはり先生なのである。
先生だから、常日頃の生活に於いて、言動、行動を慎まなければならない。
山岡先生は、このようなことを言いたかったのだろうか、と思った。
けれども、僕としては、山岡先生の真意を理解することはできなかったのである。
この頃、僕は少し考え出した。
教育について、である。
「教育とは何か」である。
大きな問題である。
何故か、この頃考え出してしまった。
そして書物を紐解いた。
すると、
教育は人なり、、とか、
教育とは生き方である、、、とか、
教育とは垂範である、、とか、
様々な事が書かれてある。
どの書物を見てもよくわからない。
実に難しい問題で、どの書物を読んでも、よく理解できないのである。
ある書物を紐解くと、、
教師は授業で勝負する、、、と明記されていた。
この文面に、僕は痛切なるものを感じた。
授業を通して、児童とのふれあいを持ち、信頼関係を築き上げ、日々努力する、、、、
授業は、教師、児童共々、お互いに勉強する場である、、、
このような文面に多分に感動したのである。
そして、日々の授業に専念して、力を注いだ。
そして、授業というものを成立させよう、、、毎日の授業を成立させう、、、
と、集中してこの頃の日々の中でがんばったのである。
ところが、教育活動というものは、どこまで活動すれば成立する、と言えるのか、、、
どれだけ実践すれば成り立つのか、
何処まで指導すればいいのか、、、、
そんな初歩的な問題さえわからない。
手を抜こうと思えば手を抜ける、、、
またやろうと思えば、いくらでもやれる。
一体何処まで教育活動を行えばいいのか、、、基準とか標準がわからないのである。
教育とは如何にあるべきか、、、
教育活動というものは、どうあるべきか、、、
僕は迷いに迷って悩んでしまったのである。
ある日、思いきって山岡先生に相談した」
すると、山岡先生は、、
「まずは自己の教育観を樹立させることが大切だ」
と回答してくれた。
そしてこの「教育観の樹立」
このことを懸命に考え出したのである。
ところがわからない、、答えが出てこない。
そして、自己の教育観を樹立させれためには、どうしたらいいのだろう、、、かと、途方に暮れてしまったのである。
また、「教師は時代の先駆者」
教師の使命は
「次世代の社会を創る児童の育成」
と、よく聞く言葉ではあるけれども、、、、
教師とは何たるものなのか、、、
僕はますます、途方に暮れてしまったのである。
またある日の放課後のことである。
山岡先生がまたまた論じた。
「自由というものを考えた場合、自由ということは素晴らしいものがある。自由ほど素晴らしいものはない。が100パーセントの自由があるものの、110パーセントの責任と義務があると言われている。そして何よりも大切なことは、幸せを掴むということ、このことが一番大切で重要なポイントだと思える。人間が生きていく上に於いて、幸せとは何か、このことはかなり難しい難問である。人々はどうしたら幸せになるか、人間はどんな状態に於いて幸せになるか、どうしたら幸福感を持つことができるか、このことを追及していくのには相当卓越した見識が必要である。各人各様幸せについての感受はそれぞれ違うものがある。幸福をかんじるのはどのような環境、どのような条件、どのような心理、考えれば考えるほど難しくなってくる。とにかく幸せを掴むことが人々に必要なことであり、求められていることであろう。また人間には欲というものがある。この欲望を満たすために人々は生きているとも言える。欲を持てとか、欲を捨てろ、とか言われているが、欲というものは省くことのできない核心的な人間の性質である。欲望があるから生きていけるとも言える。」
ある意味では山岡先生の独自の見解だとも思った。それと共に感銘も受けたものである。
ところで僕の私見でかるけれども、過去には確かに聖職という言葉が存在した。
疑問を感じないこともないけれども、、、現在ではこの言葉が風化されている。
大きな発言をするかも知れないが、、、、
僕は悩みに悩んでしまった。
そんなある日の昼休み、例のマドンナ的存在の水野先生が、コーヒーを飲んでいた。
一杯のコーヒーを飲んで、水野先生は
「ああ、幸せ、、、」
この一言を聞いて僕は感じた。
この先生の今までの人生が、この一言に凝縮されているように思えたのである。
また、悲観的な心情も感じたのである。
何か胸の中に秘めていたものを、露出するかのようにも聞こえてきた。
また過去の労苦を、圧縮して囁いているようにも感じられたのである。
養護教諭というのは、他の教師から見れば、一見気楽そうに思われがちである。
けれども、一年を通して、やはり大変である。
毎日の児童の怪我を治療しなければならない。
保健便りなどの編集、、、大きな事故が起こった時には、医者との連携、、、、校医検診(歯科、眼科検診)、、、身体測定、、、予防接種、、、など、大変なものがある。
女手ひとりで子どもを育てて行きながら仕事をしていく、、、
時々考えるけれども、水野先生に対して、苦労の後が立たないのではないか、、、と、僕は同情の気持ちを持っている。
高校時代に「同情は禁物」というひとつの考えが僕の頭の中に温存していた。
「同情するのであれば何かしてやる」というのが、僕の高校時代の持論だった。
が、とにかく
水野先生は、気になる存在として、僕の胸に映っていたのである。
この水野先生は、おしとやかな性格で、気品の良さも、その姿、容姿から流れていた。
髪の毛も長くて、スマートなスタイルも持っている。
僕は時々、横顔を見てしまうところがある。
ところで話はまたまた変わるが、今日まで学校生活をしてきて、変な感じがすることがある。
「屁」についてである。
要するにおならである。
職員室にいると何かもようす感じがする。
しかし「ぷー」と出すわけにはいかない。
そこで僕はトイレへ行って、、、と思ってトイレへ行く。
が、それがまたトイレへ行くと何故か出ないのである。
職員室へ帰るとまたその感じがする。
そしてまたトイレへ行く。
そんな現象が繰り返し続いた時期がある。
ある日の職員会議の時、いてもたまらなくなり、下腹部に力を入れて「ぷー」と大きな屁をこいてしまった。
職員室は何事が起こったのかと一瞬静かになった。が、二、三秒後、どっと笑いの渦が巻き起こった。
みんな大爆笑だった。
顔が赤くなって恥ずかしい感じがした。
しかし仕方が、なかった。
「人間というのは、堅苦しいことばかり考えていたのでは物事がうまく運べない。ある程度の柔軟性を持って、融通の聞く面もなければならない。柔らかさも必要である。窮屈さ、堅さ、堅苦しさ、このことは人間をみずからダメにする。冗談、ウイット、ユーモア、この精神が人間にとって不可欠である。」と、後で、山岡先生は、この「屁」についての寸評をしてくれた。
またこんなことも言ってきた。
「人間というものは百点満点は取れない。三十点でも四十点でも良い。百点満点が取れないところににんらしさがある。何事に於いても完璧にはいかないものがある。何かにつけて向上を図るということは悪いことではないが、完璧、百点満点を目指すということは人間としての最終の目的だと思える。また人間というのは理解できないところに面白さがある。人間理解ということは重要なことだとは思うが、なかなか理解できないものがある。そういうところにも人気の面白さがある。」
「人間というものは幼い時から、人に揉まれることが著しい成長を促すことになってくる。人間の成長過程に於いて大切な養分となってくる。このことは学習面よりも重要視されなければならないとも思える。人に揉まれて、揉まれて、揉まれることが必要である。そしてこのことにより向上心が養われる。ただ単にお坊ちゃん、お嬢ちゃん育ちでは、将来困ったことにであったら戸惑うことがある。人に揉まれるということは、人間としての糧となり進歩を促すことになってくる。もちろん勉強することもさることながら、人に揉まれるということは重大な栄養素となってくる。」
「また後悔したり、悔いのない生活を送ることが、確実な人間としての歩み方である。そして、何事に於いても忘れること、忘却することが明日への希望を見出だしてくれる。」
「また、人間は、ならぬ堪忍、するが堪忍、というように、我慢、辛坊、忍耐が必要である。このことが後々になって生かされてくる。」
「人生というのは自分との戦いだ、自分に負けることが一番ダメなんだ。」
「夢と希望と勇気を与えることが著しい大事なこととなってくる。」
「人間、誰でも能力を持っている。能力を、出せ。能力を生かせ。能力を発揮せよ」
「可能性を信じることだ。」
またまた余談である。
僕はタバコをよく吸った。所謂ヘビースモーカーである。
「百害あって一理なし」のタバコではあるけれども、どうも止められない。
現在ではタバコに関してまわりの目が厳しいものがある。
タバコに関しては許されない現状である。
手厳しいどころか、絶対的に禁止されているような現状である。
昔はそう厳しくはなかった。
けれども現在ではダメなのである。
少し前の時代のテレビのコマーシャルで「今日も元気だ、タバコがうまい」
こんなコマーシャルがながれていたということを人から聞いたことがある。
こんなことを言えば、ますます反感を買って、真値を問われるとは思う。がどうもタバコが止められない。
タバコが手から離れないのである。
が、とにかく現在では、当然の如く通用しないのである。
ところが、あるものの本を読んでみると、利点もあると記述している。
果たしてその真偽は知らない。
そもそも吸い始めは、今日は1本、今日は3本という程度のものだった。
そしてどんどん本数が増えていった。
一時止めようとしたことも何度かあった。
本数を減らしてできるだけ少なくしたこともあった。
1日、7、8本の時もあった。
だが周知の通りなかなか止められない。
悪いとわかっていても止められない。
誰しもが経験している通りである。
もはやニコチン中毒になっている。
しかしタバコがそんなにうまくない時もある。
苦い匂いがするだけで、全然うまくない時がある。
「こんなもの、うまくない」と思って灰皿に捨てる、が、10分後また自然とタバコを手にするのである。
ある時タバコに付き物の「たん」が気になったことがある。
そして病院へ行った。
レントゲンをとってもらって診察を受けようとしたのである。
毎朝、喉の奥から変に黄色い液体が出てくる。
が、しかし出ない時もある。
医者に聞けば出てもよいという。
ある医者に聞けばでなくてもよいという。
どうもよくわからない。
病院を三つ、四つ走り回って、駆けずり回って、這いずり回って検査してもらった。
けれども医者によって診察の打診が違うのである。
どう解釈すればよいのかよくわからなくなってしまった。
少し怖くなってきた。
やはりタバコは止めたほうがよい、、、そう思った。
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