第45話 悪魔の取引き



 目の前が涙でうるんでくる。


 信じられない言葉は機関銃の掃射そうしゃより威力が高い。

 火乃香は何度も高いところから落とされてヒビ割れたビスクドールだ。マシンガンの衝撃には、とても耐えられなかった。粉々にくだけちり、空中分解するのを、自分でもハッキリ感じた。くだけた幾千万のカケラが、暗闇をキラキラ舞いちるさまが見えた。


(ああ、キレイ……)


 昔々、美しい娘が王子様と結ばれる、おとぎ話に憧れる平凡な少女がいました。王子様と結婚すれば幸福になれる。そう信じていました。


 でも、少女を迎えに来たのは青髭だったのです。それも、二人。王子様のツラの皮をかぶった欲深い青髭と、どこから見ても王子様だけど、ほんとは悪魔が化けた青髭です。


「……二人とも、わたしをだましてたの?」

「僕はだましてたわけじゃないよ。春翔と契約しただけさ。それも、君に会う前だ。君に会って、ほんとに好きになった。これからは僕が君を守る」


 悪魔の青髭がそう言う。

 だが、欲深い青髭も負けていない。


「だまされるな! 困ってるおれに取引きをもちかけてきたのは凛だ。おれのほうが被害者だ」

「友達の窮状に手をさしのべちゃダメなのかい?」

「最初から、おれをだますつもりだったんだろ?」

「だから、それは君が契約を守らないからだ」

「今さら契約守ったって、おれは殺人犯だ。もう社会的には死んでる。そうだよな?」


 春翔は服の下に手を入れた。どこで手に入れたのか、コートの下はセーターとチノパンだ。そのコートの内側につっこんだ手に、刃渡りの長いナイフをにぎっている。ベルトにさしこんでいたらしい。


「火乃香は渡さないぞ!」

「おいおい。やめとけよ。君を救えるのは僕だけだよ? 警察や検事の会員に声をかけてもらいたいだろ? なんなら整形外科医に施術してもらって、別人として生きるなんて方法もある」

「うるさい! 黙れ!」


 両手でナイフをにぎりしめ、春翔はわめく。


「火乃香。信じてくれ! ほんとに、おまえを愛してるんだ。凛と取引きしたのだって、おまえを幸せにしたかったからだ。いい仕事について、タワマンに住んで、贅沢させたかったからだよ。なのに、おまえは凛と浮気して、おれを裏切った」


 涙まじりの春翔の訴えは、火乃香の耳には届かない。二人のあいだに生まれた子どもを譲渡する約束。そんな重大な取引きを火乃香にナイショでする夫だなんて、とても信用できない。


 いい仕事、高級マンション、贅沢な暮らし——そんなことのために、火乃香はめちゃくちゃにされた。高い塔の上からつきおとされ、粉々にくだけちった。身も心も壊され、二度と修復できないほど。


(ゆるせない。ゆるせない……)


 怒りとともに、なぜか途方もない解放感が満ち潮のように押しよせてきた。それに乗れば、とりかえしのつかないどこかへ、火乃香はつれ去られてしまう。わかっていても止められなかった。


「おまえを誰かに渡すくらいなら、今ここで……」


 春翔が火乃香にむかって突進してくる。ナイフを前につきだし、本気で殺すつもりだ。

 ゆるせないのはこっちなのに。


(おまえなんて、もういらない)


 欲張りな青髭。サヨナラ。


 鈴の音が火乃香の頭のなかいっぱいに響きわたっていた。それはくだけちるビスクドールの肌が床をはねる音や、骨のメリーゴーランドや、バシャバシャと水のはねる音をまきこんで、一体化し、サロンを轟音ごうおんで満たした。


 凛のおもてがこわばっていたのは、果たして、春翔のせいなのか、それとも、火乃香のせい?

 春翔自身、驚愕の目で立ちどまった。彼らはいったい、何を見たのだろう?


 火乃香にはわからない。

 圧倒的な力の奔流に、ただ身をひたしていたから。体じゅうの骨から鈴が玉になってとびだしていくような、あらがえない轟きに、音という音はかき消え、世界は静止した。熱い炎の波がほとばしる。


 夢の友達が笑い、狐姫は錫杖をかかげ、コウイカが舞い、成海は泣きながら、要女は憤りつつ、でも、火乃香に逆らえない。


 音がやんだとき、火乃香はナイフの柄をにぎりしめていた。春翔の胸にその刃がどっぷり沈んでいる。

 非力な火乃香が春翔の手からナイフをうばいとり、刺しつらぬいている。ふつうならできそうもない。でも、事実、そういう状況だ。


(みんなが……力を貸してくれた?)


 というより、霊たちの力を火乃香がひきだした。春翔はそのせいで金縛りにあったのだ。


 春翔はひきつった顔のまま、よこ倒しになった。あまりにもあっけなく、死んでいる。


 爆発的な感情のたかぶりは完全に去っていた。初めて人を殺してしまったで、火乃香はズルズルと床にすわりこんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る