終章

第44話 契約



 火乃香はほんの数センチ、ドアをあけた。スキマから、なかをのぞく。

 室内はふつうの応接間だ。壁ぎわの四方にソファがぐるりとならび、それとは別に円卓と椅子のセットが一つ中央に置かれている。照明は薄暗く、高級サロンのようにも見える。


 そのテーブルセットのそばに、春翔が立っていた。やはり、思ったとおり、凛と二人でいる。


「だから、これは取引きだと最初に言っただろ? 代償を渡すことをしぶりだしたのは君のほうじゃないか」


 信じられない。凛もふつうに話している。二人のようすは見知らぬあいだがらではない。少なくとも、もともと個人的なかかわりがあったふうだ。


「それは……何も今すぐじゃなくても。必ず代償は払う。でも、次のときでもよかったじゃないか」

「君さ。わざと、火乃香さんにさわらないようにしてたろ? 子どもができないように」


 火乃香はますます息をのむ。二人の会話はいかにも怪しい。そこに、火乃香の名前が出てくるなんて思いもしなかった。


 しかも今の言いかたは、たぶん、あの忌まわしい事件のあと、春翔に毎晩、無視されていたことをさしてるみたいだ。いや、もしかしたら、その前から? 思えば、新婚だというのに、マンションに越してから、まったく交渉がなかった。新しい仕事さきで疲れているにしても、何ヶ月もふれないなんて、結婚したばかりで変じゃないだろうか?


 二人の話は続く。

「火乃香さんとの新婚生活が楽しくて、子どもを渡すのが惜しくなったんだ」

「それは……でも、二人めか三人めでもよかったじゃないか。おれはその話をしようとしたんだ。契約内容をちょっと変えてもらえないかと。そのあいだだけのつもりで——」

「ダメだね。契約内容は何があっても変えられない。よくいるんだ。最初は自分の欲のために平気で子どもを売っておいて、いざとなると渡すのをしぶる契約者。君は取引きによって、このマンションに住んで、よりグレードの高い職につけた。これからの昇格だって、望みどおりだった。ちゃんと契約を守ってさえいれば」

「だからって、変な霊さわぎ起こして、火乃香を怖がらす必要はなかっただろ!」

「あれは臼井が勝手にやったんだ。おまえが元カノをちゃんとしつけてないからだ」

「嘘だ! じゃあ、成海はどこから鍵を手に入れたんだ。おまえが渡してやったんじゃないのか?」

「そんなことしないよ。する必要もない」

「嘘つけ。おまえの母親の顔、まだおぼえてるぞ。火乃香にそっくりだ。おまえ、火乃香見て、欲しくなったんだろ? だから、おれをハメたんだ。成海を殺したのは、おまえだ!」


 黙って聞いていた火乃香の足がだんだん、ふるえてくる。あまりにも重大な内容なので、いっぺんには頭に入らない。脳が理解をこばんでいると言ったほうがいい。


 立ちつくしていると、背後から小さな悲鳴がした。藤江がティーセットを持って立っている。その声を聞いて、凛がこっちを見た。火乃香と目があい、しまったという顔をする。

 しかし、行動は早かった。かけてくると、ドアのあいだから、火乃香の手をつかみ、なかへひき入れる。


「藤江。お茶はいい。さがってて」


 藤江は一礼し、言われたとおり去っていく。

 そのあと、凛は扉に内鍵をかけた。


「しょうがないね。あなたを傷つけたくなかったから、ずっとナイショにしてたのに」と、凛は苦笑した。


「……どういうことなの? 二人は知りあいだったの? 取引きって? 子どもがどうとかって? わたしに何かしたの?」


 たずねると、また凛が話しだす。春翔は蒼白で、言葉にならない。


「僕たちは中学の先輩後輩なんだよ。けっこう仲はよかった。な? 春翔先輩」

「……」

「春翔が前の会社をクビになったのは知ってる? もう一年くらい前になるかな」


 寝耳に水だ。まったく知らなかった。支社長になって本社から転勤になったと聞かされていたのだ。


「でも、仕事が……毎日、出勤してたし、お給料もちゃんと振りこまれて……」

「それは、春翔に泣きつかれて、僕らが新しい仕事を斡旋あっせんしてあげたからだ。クラブ・クラブの人脈をいかせば、そのくらいはたやすい」

「このマンションは? 社宅なんじゃ?」

「ここは僕が提供してる。まあ、取引きの見返りの一つだから」

「見返りって……?」


 それがもっとも怖い。できれば、聞きたくない。

 でも、凛は屈託なく明かす。


「君が生んだ最初の子どもを僕らにくれるって。その見返りさ」

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