第43話 塔子にあげたもの
なぜ、布団をめくれなんて、老人は言うのだろう?
病気だとしても、それが凛となんの関係があるのか?
わからないが、断れない圧力が、老人のおだやかな口調のなかにあった。
火乃香はそっと布団の端に手をかける。高価そうな羽布団。最上級のダウンだけで作られているのか、とてもかるい。
火乃香が布団の端をにぎったまま、うかがうと、老人はうなずいた。
ゴクリと息を飲み、やがて、火乃香は羽布団を持ちあげる……。
そこにあるものを見て、思わず悲鳴をあげた。いや、それはもしかしたら、ただの事故か、病気の治療によるものかもしれない。が、そのとき、火乃香にはわけがわからない禍々しいものに見えたのだ。
布団の下には当然、老人の体があった。だが、四肢がない。布団の下の胴体に、手足が一本もない。
以前、戦場に行って両手両足を失った兵士の話を本で読んだが、老人は戦争に行ったわけではあるまい。だからと言って、原因が交通事故なら、わざわざ、火乃香に見せるはずもない。手足がないことに意味があるのだ。それが、一瞬、火乃香を襲った恐怖の正体だ。
「こ、これは……どうして……」
老人はむしろ誇らしそうだ。
「塔子は私が四十二のときにできた第一子でな。それはもう可愛い一人娘だ。子どもはあきらめていただけに、天にも昇る心地だった。妻は高齢出産がたたって、数年後にあの世に召された。父子家庭で大事に育てたよ。塔子のためなら、どんなムリでもしてあげた。あの子の喜ぶ顔だけが私の生きがいだった。だからな」
そう言って、博之は火乃香を見つめる。満面の笑みで訴えた。
「全部、あげたんだよ。塔子に」
「えっ? あげる……?」
火乃香は混乱した。年とってからできた一人娘が可愛いのはわかる。亡くなった奥さんのぶんも、大切に育てたのだろう。でも、手足をあげるというのは?
「ほら、これが塔子だ。可愛いだろう? あんたによく似てる」
老人が示したのは、ナイトテーブルに飾られた写真だ。今よりちょっと若く、まだ手足のある博之氏と、赤ん坊を抱いた少女が写っている。赤ん坊は凛に違いない。だとすると、少女が萱野塔子。凛の母だ。
その写真はふたたび、火乃香に衝撃をもたらした。あの霊だ。要女に階段からつき落とされたとき、最上階からすべりおりてきた女。火乃香に似た、でも、火乃香ではない女。火乃香の母の妹と言えば、もっともそれらしい。
思考が追いつかず、クラクラしていると、足音が近づいてきた。パタパタと独特なあの音はナースサンダルだ。吉見が帰ってきたのだ。
火乃香はあわてて、部屋をかけだした。博之の声が追ってくる。
「よく考えなさい。私は後悔せんよ。愛娘のためだからな。だが、あんたはまだやりなおせる」
吉見に姿を見られてしまったかもしれない。しかし、そんなことは二の次だ。火乃香の頭のなかには、さっき老人から聞いた言葉だけがガンガン鳴り響いている。
——塔子にあげたんだよ。手足を全部。塔子に。後悔はしない。あんたはよく考えなさい。塔子にあげたんだよ。今ならまだ逃げられる……。
めまいがして気分が悪い。廊下にうずくまっていると、ある部屋から出ていく藤江が見えた。藤江は火乃香には気づかず、キッチンへむかっていく。
変だ。あれは、凛が決してなかへ入ってはいけないと言っていた『あかずの間』だ。藤江が勝手に入れるわけがない。ということは、あけたのは凛だろう。凛が帰ってきている。
なんだか、予感があった。火乃香のとなりに、すっと影が立ち、耳打ちする。
「ほら、今だよ。青髭の秘密を明かしてやろう?」
ずぶぬれの女の子が、火乃香の手をにぎっている。
(わたし、見ないとダメ?)
(男にだまされるのはもうイヤなんでしょ?)
(そうだけど、凛さんはそんな人じゃない。嘘なんてつかない)
(男なんて、みんないっしょだよ。あたしと大人になったら結婚するって言ってたのに、アイツは川につきおとしたんだよ)
(……わかった。行ってみる)
あかずの間のなかには何がある?
凛は青髭? それとも王子様?
火乃香は信じたい。白馬の王子様だと。でも、そう思っていた春翔は違っていた。ただの不倫男だ。凛が青髭じゃないという保証はどこにもない。
もしオートロックなら、藤江が出ていったあと、扉に鍵がかかっているかもしれない。ドアノブに手をかけ、わずかに力をかける。ゆっくりとまわすと、ノブは火乃香の動きに従う。鍵があいている。
なかから、男の声が聞こえた。
「話が違う! 言うとおりにしたら、出世は望みのままだと言ったろ? 大金持ちになれると言ったから、協力したんだ!」
激しく罵るその声を聞いて、ドキリとした。聞き違えようもない。一度は夫だった人だ。
脱獄した春翔が、そこにいる。
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