第42話 凛の祖父
もう男に裏切られるのはたくさんだ。
嘘つきだった春翔。
再婚後、娘をかえりみなくなった父。
言葉たくみに火乃香の処女をうばった名も知らぬおじさん。
とつぜんの暴力を押しつけてきた地下駐車場の男。
もしかして、凛も? 凛も彼らの仲間なのか?
凛は青髭ではない。誠実で優しい王子様だ。
そう信じたい。
あるいは、童話の娘は、青髭を愛していたのかもしれない。青髭の隠している秘密を知りたがったのは、信じたかったから……。
凛の隠しているのが要女でさえなければいい。たとえば、要女であっても、生きてさえいなければ。
鍵のかかった扉の内を見たくてしかたない衝動がこみあげた。でも、鍵がない。藤江に見つからないように、探せるだろうか?
(凛さんの書斎か寝室……たぶん、鍵はそのあたり)
凛の部屋は知っている。凛がいるときに何度か入った。以前、うっかり迷いこんだ、凛の母の部屋の近くだ。
最上階のなかにはセキュリティのために防犯カメラがあちこちある。意識していなかったが、きっと、警備室からは火乃香の行動が見えているだろう。だけど、火乃香はすでにここの住人だと認識しているはずだ。多少、歩きまわっても、不審には思われないに違いない。
火乃香はなるべく平常を装って、凛の部屋へ歩いていった。青髭の城の地下へむかう娘のように、胸がドキドキする。言いつけにそむく罪悪感と、それに反してウキウキする感覚。足に翼が生え、宙に浮かんでいる心地すらする。
フワフワ。フワフワ。
雲間を飛んでいく。
いつから、こんな気分だったのだろう。じつはもう長いあいだ、こうだった気がする。ずっと、夢のなかをさまよっているような。どこからが夢で。どこからが現実なのか。
凛の部屋の扉をかるくノックする。凛はいないはずだが、もしも火乃香の知らないうちに帰っていたときのために。でも、返事はなかった。そっとドアノブに手をかけようとすると、どこからか声が聞こえてきた。いつもの霊的なものではない。男の声だ。
(誰?)
火乃香は声のするほうをふりかえった。
火乃香のために、護衛をかねたドライバーを雇おうとか、そういう話は出る。が、今のところ、この最上階に住んでいる男と言えば、凛とその祖父だけだ。
(凛のおじいさん?)
凛の祖父、博之。彼の寝室も入室を禁じられた部屋の一つだ。あかずの間である。
小走りに声のするほうへ行くと、部屋の扉があいていた。いつもは必ず閉ざされているのに。看護師があけっぱなしにしていったのか。吉見さん、吉見さんと、看護師を呼んでいる。
凛はなぜ、祖父に会うなと言うのだろう? ほんとにおじいさんの体調をかんがみて? それとも何か秘密が?
火乃香は周囲を見まわし、看護師がいないと確認してから、その部屋をのぞいた。
最上階の中央あたりなので、窓はない。広い寝室にひじょうに大きなベッドが一つある。キングサイズ。しかも、リクライニング式だ。あとはスタンドライトや小さなテーブルなど。
ベッドがやや起きあがり、そこによこたわる老人の頭部が扉の位置からも見えていた。寝たきりと聞いていたが、思っていたより顔色はいい。やせてはいるものの、若いころは凛に似たグッドルッキングだったに違いない。
老人は火乃香に気づき、うなずいた。
「すまんが、水を飲ませてくれないか。吉見さんがいなくてな」
火乃香が凛のフィアンセだと知ってはいるようだ。初対面だが、おだやかな笑みを見せてくれる。
火乃香はホッとした。やはり、凛に秘密なんてなかった。ほんとにおじいさんの容態を考慮していただけだったのだ。
部屋は明るく、清潔で、温度も快適だし、凛の祖父の博之は優しそうな人だ。病気をわずらってはいるが、それも年齢的なものなのだろう。
「初めまして。わたし、姫原火乃香です。凛さんの婚約者の……」
「ああ、あいさつはいいよ。吸い口がそこにあるんだ。悪いが口にあてがってくれんか」
老人の枕元にナイトテーブルがあり、そこに水を入れた吸い口がある。ちょっと前、骨折して入院していたときに、火乃香自身も使っていたので、なじみがあった。急いでかけより、吸い口をとって、老人の口元へ持っていった。老人は喉を鳴らし、美味そうに水を飲む。
「ありがとう。凛は果報者ですな。あなたみたいな優しい人に出会えて」
「わたしこそ、凛さんみたいな素敵な人といられて幸せです。わたし、もっと早くおじいさまにお会いしたかったのですけど」
すると博之のおもてに奇妙な表情が刻まれる。それは失笑のような、哀れみのような、またはうしろめたさのようでもある。
「あんたはほんとに凛でいいのかね?」
「えっ? もちろんです」
ああ、それとも、暗に火乃香が凛にふさわしくないと言っているのだろうか?
でも、老人はこう言った。
「凛はほんとに塔子に瓜二つだ。私にとっちゃ可愛い可愛い孫なんだがね。あんた、今ならまだ逃げられるよ?」
言われている意味がわからない。すると、博之はあごのさきで自分の体を示す。
「布団をめくって見てごらん。これでも、あんたは後悔せんかね?」
恐る恐る、火乃香は布団をめくった。
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