第41話 青髭の城



 火乃香は床に倒れたまま、ふるえていた。

 しかし、もう要女の影が現れるようすはない。ふんいきも変わっていた。もとのおだやかな午後。張りつめていた空気がゆるんでいる。あきらかに、悪いものは去った。


 ほっとして、火乃香は立ちあがる。

 しかし、今のはなんだったのだろう? 霊的な何かだったことはまちがいない。夢の友達やコウイカや成海と同質の何かだった。

 だが、要女は生きているはずだ。それとも、まさか、凛にふられてになり、自殺でもしたのか? いや、生霊とも考えられる?


 凛に相談しようと電話をかけたがつながらなかった。大事な話の最中で、マナーモードになっているのか。


 要女が死んでいるかもしれないという可能性は、何がなし、火乃香をおびやかした。霊になった要女につきまとわれるに違いないから? いや、それだけでもない何か……。


 自分の心が整理できない。気を落ちつかせるために、生きた人間のそばにいたかった。火乃香はキッチンに内線をかけ、藤江を呼んだ。藤江の休憩室はそのとなりにあるのだ。が、出てこない。トイレにでも入っているらしい。


 自分で行ったほうが早い。

 キッチンで待っていれば、藤江がすぐ帰ってくるだろう。それでもダメなら、一階のコンビニかレストランにでも行けば。


 人のぬくもりを求めて、火乃香はふらふらと廊下へ歩みだす。タワーマンションの最上階ワンフロアだ。とにかく、だだっ広い。部屋数はいくつあるのか、さっぱりわからない。


 そのほとんどは、ここで暮らし始めたとき、凛が案内してくれた。図書館みたいな書斎や、映画を大画面で見られるシアタールーム。火乃香はタバコを吸わないけど、広い喫煙室もあった。客間や大小の寝室。たくさんの浴室やシャワールーム。凛の寝室。仕事部屋。住みこみの藤江のための部屋も。

 まるで貴族のお城だ。たった一回、案内されたていどではおぼえきれない。


 そのなかには「ここにだけは入らないでほしい」と凛から言われている部屋もあった。なぜダメなのかは教えられていない。


 そういう部屋には鍵がかかり、凛がそれを管理している。きっと凛が仕事や接客で使うのだろうとしか思っていなかった。でも、もしかしたら、違うのかもしれない?


 とうとつに、青髭の童話を思いだす。美しい娘が青い髭の領主のもとに嫁ぐのだが、彼はすでに何人もの妃があった。しかし、その全員がいなくなってしまったのだ。離婚が成立したのかどうか。


 青髭は彼女たちが嘘つきだという。君は彼女たちのように私を裏切らないでほしいと。


 領主の立派なお城につれてこられ、有頂天になる娘へ、青髭は城じゅう全部の鍵がそろった束を渡す。ただ一つ、地下室の部屋にだけは入ってはいけないと注意して。


 広い中世の城のなかで、青髭が出かけるたびに、一つずつ新しい鍵で部屋をあけて楽しむ娘。


 でも、やがてはすべての鍵を使いはたして、ここだけはあけてはいけないと言われた地下の小部屋だけが残る。あけてはいけないという理性と、あけてみたい葛藤かっとうで、苦しんだあげく、ちょっとのぞくだけならと、娘は小さな鍵を使ってしまう……。


 とても有名な童話だ。

 子どものころ、図書館でその本を読んで、火乃香はとても不思議だった。あけちゃいけないと言われた扉を、どうしてあけてしまうのか。そこをあけさえしなければ、あの娘はずっと幸せだったのだ。髭の色が気味悪いという、ただそれだけ我慢していれば、夫は領主で、待遇もよく、贅沢ざんまいさせてもらえて、美しいドレスをまとい、美味しいものを食べ、貴族の妃として生きていけた。いずれは二人のあいだの子どもも生まれただろうし、青髭は伴侶として、決して悪くなかったはずだ。


 でも、今、あの娘の気持ちがわかる。あけてはいけない禁断の扉。そのむこうに何があるのか、人というのは、どうしてもそれが気になってしまうものなのだ。


 新しい鍵を使うたびに、さらに豪華な部屋があったから、きっとあの小さな鍵の部屋はお城のなかでもっとも素晴らしいはずと、娘は考えた。


 でも、火乃香は違う。あけてはいけない扉のむこうには、恐怖がひそんでいるのではないか。他人に見せてはならないものが隠してある。だから、あけてはいけないのだ。


 どんな恐怖がひそんでいるのか。それがいつも心のかたすみを支配して、安穏と日々が送れない。頭のすみで、つねに『この幸福はいつか壊れてしまうかもしれない』と考えていなければならないから。そんな状態で、どうやって幸せを満喫できるのか? 小さなとげがうずいて、その痛みはわずかなのに、忘れられはしない。


(まさか、凛さん。あの部屋に要女を隠してないよね?)


 もしも、二人が恋人同士だったなら? 春翔が火乃香と結婚していながら、成海とも続いていたように。

 要女のほうが、火乃香より長い時間を凛とすごしている。今にして思えば、要女の言動には凛への恋情が、たしかにあった。凛のほうも特別に思っていたのなら、この広い最上階のなかで、火乃香と要女を住みわけはさせられる。


 さっきのアレは霊的なものだったと思う。でも、もしかしたら、おびえた火乃香の時間感覚が狂っていて、ふりかえるまでに案外、長いあいだかかっていたとしたら。要女はこっそり逃げだしたあとだったのかも?


 青髭の秘密の扉の内には、死体が隠されている。でも、死体ならまだいい。生きた女を……真に愛する女を隠しているなら、そっちのほうが最悪だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る