第40話 脱獄犯



 春翔が逃げた。

 拘置所から、どうやって出てきたのかわからないが、以前にも同様の事件があったから、そういう手口をマネしたのかもしれない。


 刑事からの電話が切れたあと、火乃香は凛に相談した。


「春翔がこっちに来たら、警察に知らせてほしいって」

「市民の義務だね」

「でも、このマンションへは鍵がないと入れないし、外にさえ出なければ大丈夫だよね?」


 火乃香にしてみれば、春翔との仲はとっくに終わっている。今さら会いに来られても迷惑なだけだ。それも、拘置所を脱獄してまで。


「まだ夫婦だしね。春翔くんが来る可能性は高いんじゃないかな」

「そう?」

「彼は離婚届を返してこないんだろ? 君に執着してるんだ」

「……」


 とにかく、マンションのなかにいれば問題はないはずだ。周囲は人通りの多い街なか。もしも春翔がやってくれば、すぐにも目撃されて捕まるだろう。それまでの辛抱だ。


 ただ、今はリハビリがあるので、定期的に病院へ行かなければいけない。ほとんどは凛に送り迎えしてもらっていたが、どうしても都合が悪いときは、家政婦の藤江に運転してもらう。藤江は年齢的にもあまり体力がないし、二人で出かけたときに、もしも春翔と出会えばどうなるかわからない。


 そんな不安な毎日。


「今日は君の検診もないし、ちょっと仕事で出かけてくるよ。新しい土地のことで税理士に会わないと」


 朝、凛がそう言って出ていった。一人になった火乃香は、アトリエで製作にとりかかる。骨折したのは左腕だったし、それももう骨はつながっている。筋力は落ちていたものの、パレットを持つのにはなんの障害もない。


 だが、製作に熱中して三十分もたつと、となりに誰かが立った。イーゼルに立てた画用紙の上に、すっと黒い影がかかる。


 凛が出ていった今、この最上階には、火乃香と藤江、そして、寝たきりだという凛の祖父とその看護師しかいない。

 凛の祖父博之にはまだ会ったことがない。火乃香は早くあいさつしたいのだが、祖父の体調がいいときにと言って、凛がなかなか会わせてくれないのだ。


 だが、凛の祖父なわけがなかった。彼はとても歩ける状態ではないという。

 看護師は吉見というアラフィフ女性で、いつも無表情で何を考えているのかわからないアンドロイドみたいな人だ。吉見は基本的に博之のそばを離れない。


 かと言って、藤江がアトリエに入ってくることはなかった。アトリエの掃除は自分でするからと、絶対に入らないよう言ってあるからだ。


 重くのしかかる気配。空気のなかに鉛が溶けこんでいる。あるいは気体が一瞬で固体になって、氷柱に閉じこめられてしまったよう。


 この感じはひさしぶりだ。病院にいるときにはなかった。

 きっと、彼らは火乃香の生体エネルギーを還元して具現化しているのだ。だから、火乃香が完全に弱っているときには出てこない。あるいは、生命がおびやかされていると、火乃香のアンテナが働かない。


 冷や汗をかきながら、そんなふうに考えていた。なるべく長いあいだ、を見ないですむよう、無意識にさけていたのかもしれない。


 でも、画用紙に描かれた柘榴の花は、の作る影に沈んでいた。影はずっと動かない。よく見ると人間の頭から肩にかけてだ。かすかにゆれる髪は短く、ショートカットの女だとわかる。


(夢の友達じゃない)


 いつもの夢に出てくる巫女や、狐姫、成海でも、コウイカでもない。この影は……知っている。


(嘘……でしょ?)


 知っている。でも、その人なわけがない。彼女はクビになって、出ていった。もうこのマンションには入ってこれないはずだ。


(要女——!)


 今度こそ火乃香を殺しに戻ってきたのだろうか?

 階段から見おろしていた要女のあの冷たい視線。憎悪のほむらがゆれていた。黒い感情にぬりつぶされた双眸。


 殺されるかもしれないという恐怖で、火乃香は動けなかった。数分、たっぷりと影を見つめていた。


「……要女?」


 かすれた声がふるえながらもれる。それを機にふりかえった。だが——


 誰もいない。

 


 火乃香は悲鳴をあげて、床にころげおちた。

 見れば、画用紙に映っていた影もなくなっている。瞬時に消えてしまった。アトリエは広く、十二畳はある。よぶんな調度品は置いてないし、ドアまで数メートルあるのだ。一瞬で走って逃げられる距離ではなかった。


 なのに、消えてしまった。それは、を示唆してはいないだろうか?

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