第39話 柘榴は枯れて



 目がさめたとき、火乃香は病院にいた。心配そうな凛がのぞきこんでいる。


「火乃香さん! よかった。気がついた!」

「凛……」


 一瞬、なんでこんなところにいるかわからない。


「わたし、どうし……」


 途中で言葉にならなくなった。起きあがろうとして、全身が包帯でまかれたミイラみたいな惨状が目に入ったからだ。


 とたんに思いだした。要女に階段からつきとばされて、ころげおちたことを。


「凛さん。わたし……」


 泣きだす火乃香の手を、凛が優しくにぎりしめてくれる。


「大丈夫だよ。骨折はしてるけど、しっかり治療すれば、キレイに治るから」


 足が片方つりあげられている。痛いと思ったところだ。やっぱり骨折していたのだ。肩から落ちたほうの二の腕にもギプスがハメられている。


 だが、それ以上にショックだったのは、お腹のなかでうごめく胎児の感触がない。


 消えてしまった。

 あのとき破水したと感じたのは、思い違いではなかった。


 涙があふれた。

 穢らわしい。うとましい。早く出してしまいたい。

 そう思っていたのに、じっさいにその命が失われたとき、火乃香のなかから湧きあがったのは愛情だった。


 あんな子でも愛していた。へその緒でつながれた分身。

 母に愛されず生まれ、人知れず他人の手に渡されるはずだった子。せめて養父母にたくさんの愛情をそそがれれば、生まれてきた意味もあっただろうに。どこまでも不憫ふびんな子だ。


「凛さん。わたし……生みたかった」


 凛はただ黙ってうなずいた。


 そのあと、火乃香は三ヶ月も入院した。骨折が完治してからもリハビリが続いた。

 ようやく退院の日になって、火乃香は重要なことに気づいた。


「凛さん。わたしをつきおとしたのは要女だよ。要女はどうなったの?」

「クビにしたよ。エレベーターの点検なんてなかったんだ。要女がでっちあげた嘘だよ。そこから調べて、君を落下させたのも彼女だとわかった。あんな危険人物だったとはね。でも、もう安心して。要女が君を害することは絶対にできない」


 やけに念を押すので、火乃香は納得してしまった。よく考えたら、これは立派な刑事事件だ。傷害、または殺人未遂。クビにして追いだして、おしまいですむ話ではない。


 しかし、そのときは子どもをなくしたショックや、入院生活の苦痛、そこから開放される安心感などで、深く考えられなかった。


 マンションにつき、着替えをとりに二十三階に帰ったとき、ベランダの花がみんな枯れていた。それはそうだ。誰も手入れする人がいなかったのだから。あの柘榴の花も実をつけることなく散っていた。赤い花の残骸が、ぼとぼとコンクリートに落ちている。


 それを見たとき、火乃香はやるせない気分になった。自分がもっと愛情をそそいでいれば、この花は枯れずにすんだかもしれない。いなくなった、あの子も……。


 気落ちしたまま季節がすぎる。友達のいない火乃香にとって、要女は親友とも言える存在だった。その友達に裏切られ、子どもを失い、毎日、二重の喪失感にさいなまれる。


 晩秋の風が骨身にしみるように吹きすさぶころ、それは起こった。


 第一報はテレビからだった。あまりニュースも見ない生活だが、そのときはたまたま、つけていた。リビングルームで、凛のおすすめの洋画をいっしょに見ていたのだ。テレビを切ろうとしたとき、ニュース番組のアナウンサーがこう告げた。


「ここで最新ニュースが入りました。殺人容疑で拘留中の姫原春翔容疑者が、拘留中の拘置所から逃亡しました。今日の午後四時二十分すぎ、弁護士との面会後、姫原容疑者の姿が見えず、脱獄をはかったと判明。ただいま、付近では警察が緊急配備で姫原容疑者の足どりを追っています」


 思わず、凛と顔を見あわせる。


「今、姫原容疑者って言ったね。君の夫だ」

「うん……」


 姫原なんて姓、どこにでもあるわけじゃない。しかも同姓同名なんて。

 春翔が拘置所から逃げだしたのだ。


「保坂さんに電話してみる」


 弁護士にかけたが、つながらなかった。三十分もしてから、かかってきたのは警察の電話だ。


「姫原火乃香さんですか? 姫原春翔の奥さんですね?」

「法的にはまだ夫婦です。こっちは離婚を申し立てていますが」


 春翔はいまだに離婚届を返してこない。裁判を起こさなければ離婚は成立しないかもしれない。


「もうご存じかもしれませんが、ご主人が拘置所から逃げだしました。そちらに来てはいませんか?」

「来てません。ついさっき、ニュースで知ったところです」

「では、用心してください。もしも姫原容疑者がたずねてきたら、警察に出頭するよう説得してください。くれぐれも逃亡の手助けなどしないでください。逃亡幇助とうぼうほうじょ罪に問われますよ」


 威圧的に告げられ、火乃香はとまどった。

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