第38話 非常階段
福禍はあざなえる縄のごとしなんて言うけど、これまでの人生、不幸ばかりだったから、火乃香にそのことわざの実感はわかない。
でも、運命の女神はちゃんとその機会を狙って、火乃香を観察していたのだ。
最上階のアトリエで、静かに絵を描いていた。いつもはせいぜいB4サイズを画用紙に描くのだが、今回はめずらしくB1だ。火乃香にしては、かなり大きい。繊細なペン画に透明水彩絵の具で色をつけ、たっぷりにじませる画風に、大きな絵はむかない。
でも、今回はやってみたかった。幸せな色を表現したかったのだ。
「あっ、絵の具、切れちゃった」
紙が大きいので、絵の具がすぐなくなる。たしか買い置きが二十三階の部屋にあった。それをとってくるしかない。画材専門店でないと売っていない高級メーカーの絵の具なので、オンラインで頼むと、届くまでに数日かかる。それまで待てない。
火乃香はエレベーターへむかう。だが、そこには点検中の立札があった。そういえば、今朝、要女から報告があり、凛が出かけているので、家政婦の藤江が受けこたえしていた。午前中いっぱいはかかるかもしれないと話していた。
しかたなく、階段へむかう。エントランスホールの外にフランス窓から出られるバルコニーがあり、そこから非常階段が階下へ通じている。ほかの階段は出入り口のドアが施錠されていて、鍵を持っているのが凛だけだ。非常階段なら住人の鍵でひらける。ただし、非常階段のドアがひらくと、セキュリティルームに信号が送られるので、ガードマンがかけつけてくる。いつもはできない。
なにげなく外へ出ていった。三十階のバルコニーから見る景色はとても開放的だ。青空をひとりじめした気分。
そういえば、このところ、変な霊もあまり見なくなった。火乃香が幸福だからだろうか? このさきの人生にはいいことしか起こらない。そんな気さえする。
だが、カンカンと鉄の階段をおり始めてすぐだ。火乃香の背後で同じく鉄をふむ音がした。誰かいる。ふりかえろうとしたときには、背中に衝撃を感じた。火乃香の体は空中へなげだされる。
あ、わたし、どうしたの? 浮いてる? なんで? もしかして、死ぬの? そう? イヤだ。やっと幸せになれたのに。まだ鳥になるのは早いよ。青い車のまわりをフワフワ飛びまわってたコウイカになるの? わたしもカイト……。
ほんの一瞬が永遠のように静止して感じられた。長い長い一瞬に、言葉にならないたくさんの思いが宇宙船のスピードでブクブク湧きあがり、消える。
次の瞬間、火乃香は肩を強打した。激痛が走り、ゴロゴロと階段をころがりおちる。ずっと下まで勢いを失わず落下して、手すりに激突する。そこで、やっと止まった。
(痛い……)
体じゅう、あちこちが痛い。全身から火花が噴きあがる。とくに絶えがたいのは落下をじかに受けとめた肩と、手すりで打った足。それに……腹部だ。
両足のあいだがぬれているのがわかる。破水したのではないだろうか?
意識がもうろうとする。
見あげると、階段の上に女が立っていた。今にも気が遠くなりそうななかで、火乃香は見た。その人の顔を。
血を流し苦しむ火乃香を、
(う……そ……)
そんなことあるだろうか?
痛みのせいで幻覚が見えている?
だって、ありえない。
立っていたのは、要女だ。
「なん、で……」
「凛にふさわしいのは、わたしよ。あんたなんか死ねばいい」
信じられないほど冷たい声だ。
こんなこと、いつかもあった。それで、思いだした。そう。あの地下駐車場。男に乱暴される火乃香を柱のかげからながめていた女。あのときは成海だと思ったが、違う。あれは、要女だ。今そこにある冷徹な目が、同じ人物のそれであると告げている。
じゃあ、これまでのきさくで明るいふるまいは全部、嘘だったのか。凛との婚約発表のときも、嬉しそうに拍手してたけど、本心では殺したいほど憎んでいたのか。たしかに、凛は素敵な人だ。要女が惹かれるのもわかる。でも……。
(まだ死にたくないよ。誰か、助けて……)
要女はすでにいなくなっていた。炎天下の非常階段に、火乃香は一人だ。このまま放置されれば、熱中症になって、まちがいなく死ぬ。
すると、最上階から女が出てきた。非常階段をおりてくるのだが、どこかおかしい。足音がまったくしない。なんだか、足が動いていないように見える。すべり台をおりるように。
これはもう夢なのかもしれない。火乃香の意識はとっくになくなっていて、夢のなかでまわりの景色を見ているだけなのかも。
女は火乃香のすぐそばまでやってきて、上からのぞきこんできた。立っているはずなのに、ありえないくらい顔が近い。十センチの距離で、目と目があった。
(誰? 成海? それとも狐姫の巫女?)
いや、違う。コウイカでもない。
(お母……さん?)
実母によく似た、でもどこか異なる女……。
「……そ、そこに、誰かいるんですか?」
ふいにおびえた声が上から届いた。藤江だ。
火乃香は必死で叫んだ。言葉にはならなかったが、かすかなうめき声がもれるのを、消えゆく最後の意識で聞いた。
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