第37話 幸福のおとずれ
春翔からはまだ離婚届が届かない。しかし、火乃香のなかで、もう区切りがついた。それはすでに終わった問題だ。
あとはお腹の子どもを体から分離させ、始末してしまうだけ。
気持ちの整理がついたので、凛との仲も急速に深まる。
「火乃香さん。今夜は例のパーティーがある。あなたも出てくれるかな?」
「もちろん。いつも美味しいお肉が食べられるから、とっても楽しみ」
自室にはほとんど帰らず、近ごろは最上階に用意された火乃香のための客室ですごしていた。
真夏の暑さも快適な部屋でやりすごし、喉がかわけば家政婦に命じるだけで飲み物が出てくる。それも最高に香り高い紅茶から、冷えたジンジャーエール、あるいは火乃香でもブラックで飲める美味しいコーヒー。高価な果物をふんだんにしぼったフルーツジュースとか。喫茶店より種類豊富だ。
まるで、凛の奥さまのような待遇。服や日用品は一階にあるブティックやコンビニから好きに買っていいと言われている。凛の名前でツケにしてくれれば支払いはすませておくと。
夢みたいな生活だ。
甘やかされていると、くすぐったいほどに感じる。
凛は自分の書斎にこもったり、客と何やら仕事の話をしたりと、火乃香が思っていたより忙しい。それでも、ゆるすかぎりの時間をいっしょにすごしてくれた。
最上階からは屋上へ行ける。屋上の一部は貯水槽になっているが、大部分は最上階に付属していた。その特権の温室を案内されていたときだ。
温室と屋上からの景色の両方を楽しめるベンチで、南国の花にかこまれながら、とつぜん、凛がポケットから指輪のケースをとりだした。そして、火乃香の前にひざまずいてくる。西洋では、男が女にそうするのは、プロポーズと決まっている。
「火乃香さん。これからさきの人生を僕とともに生きてくれるだろうか?」
ひらいたケースには、
子どものころ、あこがれたお姫様……。
「凛さん……」
「僕の大切な人は君しかいない」
火乃香に断る理由なんて、ただの一つもなかった。でも、気になるのは、お腹の子どもだ。凛はお金持ちだ。経済的な理由で子どもを手離す必要はまったくない。もし、手元に置いて育てようと言われると困る。いらない理由を話せない。
ためらっていると、凛は
「僕を嫌い?」
「まさか」
「じゃあ、いいよね?」
「でも……凛さんのほうこそ、わたしを嫌いになる」
「ならないよ。なるわけない」
言いつつ、すっと指輪をケースからぬいて、火乃香の指にはめる。シンデレラの靴のようにピッタリだ。
「……わたしなんかでいいの?」
「君じゃなきゃダメなんだ」
見つめかえすと、彼は火乃香を安心させるように微笑した。誰かを頼ってもいい。一度はなくしたと思っていたその心地に、火乃香は酔った。今度こそ、この人なら、信用できる。
天国のような場所で、天国のような気分。
その夜のパーティーで、二人の婚約が発表された。火乃香は自分の指に光る指輪が誇らしい。心なしか優子や要女も羨ましげだ。
まさに、幸福の絶頂。春翔との結婚式より舞いあがった。世界中が薔薇色に染まって見える。
何度も乾杯され、飲みすぎたのだろうか?
また、眠くなった。宇宙の底の渦巻きに意識が吸引されていく。
眠る火乃香のまわりで、みんなが見おろす。いつかの夜と同じ。ただじっと見ている。緑色に目を光らせて。
そのうち、一人ずつ火乃香のお腹に手をあてて、さすりだした。
カラカラと骨のメリーゴーランド。
今日も赤いドレスを着た友達は、とびあがるくらい有頂天。
「知ってる? 狐って、肉食なのよね」と、彼女はささやく。
目がさめたときには、以前のように、みんなは少し離れた場所でコーヒーを飲みながら話していた。
まだ頭がクラクラする。
「火乃香さんは疲れてるみたいね。わたしたち、もう帰りますわ」
「じゃあ、私も」
「また呼んでください。今日はお招きありがとう」
宮眉夫妻やほかの客も、あいさつを残し去っていった。残ったのは要女だ。凛の手をとって何か話している。
「ねえ、本気じゃないんでしょ?」
「何が?」
「火乃香と結婚なんて、どうかしてる。あなたのこと、なんにも知らないのに」
「君には関係ない」
なんだか、要女は怒ってるみたいだ。
そのあと、二人は長々話していたが、眠気に勝てなくなった。火乃香の意識はまた沈みこむ。
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