五章
第36話 面会
拘置所についた。
思っていたより小さな建物だ。まわりは鉄柵にかこまれ、プレハブの工事現場を連想させる。
面会室はテレビドラマなどで見たままだ。コンクリートの壁の一室をアクリル板が二等分している。
弁護士の保坂をともなって、そこに入った。凛は親族ではないし、車内で待ってもらっていた。
やがて、むこうがわのドアがひらき、春翔が入ってきた。やつれた姿を見て、胸が痛む。失望し、嫌いになったはずなのに、やっぱり目にすると同情する。それはもう恋でも愛でもないのかもしれないが。
春翔は中央に置かれた椅子にすわると、しばらく、うつむいていた。何から話すべきか迷うようだ。火乃香が口をひらきかけると、あわてたようすで言いはなつ。
「待ってくれ。聞いてくれ。おれじゃないんだ。おれは成海を殺してない」
それは火乃香にとってはどうでもいいことだった。春翔には自分の人生のかかる一大事に違いない。が、火乃香には関心がない。ここからさきの将来は別々の道を行くのだから。
沈黙していると、ますますあわてて春翔が早口にまくしたてる。
「浮気もしてない。ほんとなんだ。成海はただの元カノだよ。アイツがおれをストーキングしてただけなんだ」
火乃香はため息をついた。
「それはムリがあるよ。あの状況で」
「この前のことは、おれにもわけがわからない。出張の予定が急に変更になったから、帰宅して、着替えをとりに寝室に入ったんだ。そしたら、急にビリッと来て気絶した。目がさめたら、おまえがいて、成海がベッドに——ほんとだ! おれはハメられたんだ!」
火乃香は無意識に弁護士を見た。保坂は大きく、うんうんとうなずく。とはいえ、保坂は裁判で春翔を弁護する。春翔の言いぶんを真実と前提するのは当然だ。
「臼井成海は死んでるんだよ。あなたをおとしいれるような人、ほかにいないよね? あの人が自分で自分の首をしめたとでも言うの?」
「でも、おれは知らない。スタンガンだよ。おれが失神してるうちに、誰かが成海を殺して、部屋に置いといたんだ」
「合鍵はないよ?」
「でも、成海は持ってた。たぶん、成海の合鍵を使ったんだ」
そこがわからない。成海はどこから合鍵を手に入れたのだろう? しかし、大筋をくつがえすほどの事実じゃない。たぶん、春翔が自分のをその都度、渡していただけだ。
「……悪いけど、あなたは信用できない」
「待ってくれ。信じてくれ。おれはおまえを愛してるんだ。なんで浮気なんかするんだ? 成海みたいなしつこい女、気持ち悪いだけだよ」
もっとゆれるのかと思ったが、予想に反して心の水面はゆらめきもしない。
その言葉、もう遅いのだ。たとえば二ヶ月半前、火乃香があの襲撃を受けて深く傷ついていた夜だったなら、どんなにか嬉しかっただろう。
でも、あのときも、そのあとも、ずっと冷たかった彼の態度しか、記憶に残っていない。
「わたしが助けてほしかったとき、あなたは無視したよね? わたしにふれさえもしなかった。毎日、背中をむけあって、無言を押しとおして。守ってくれるなんて嘘ばっかり。だからもう、あなたの言葉は信じない。殺人罪から逃れたいだけでしょ? 今度はわたしに助けてほしいの? ズルイよ」
春翔は感情を抑えられないようすで立ちあがる。
「あれはおまえが浮気したからだろ! 萱野とデキてるんだ! ああ、無視したよ。おまえに怒ってたからな。だから? 最初に裏切ったのはおまえだ!」
刑務官がよってきて、春翔をなだめる。つれていかれそうになったので、火乃香はとどめた。
「まだ話させてください。これが最後なんです。わたしもハッキリさせておきたい」
刑務官はうなずき、春翔を椅子にすわらせてから、すみに戻る。
「凛さんはいい人だよ。あなたに浮気されて泣いてるわたしを励ましてくれた。わたしはあの人が好き。でも、まだ、キスもしてないんだけど。あの人は紳士だし、ほんとにわたしを大切に思ってくれてるから」
たとえ、それが母への恋慕のすりかえだとしても、だ。春翔よりはずっと誠実だ。
「ほら見ろ。浮気してる。おまえは心でおれを裏切ってたんだ」
「何ヶ月も夫に無視されれば、誰だってそうなるよ」
火乃香は自分で自分におどろいていた。こんなに強い口調で男の人に反論できるなんて、今までの自分ではないようだ。
ふるえそうになる手を、ギュッとにぎる者があった。見おろすと、夢の友達が立っていた。子どもの姿で、火乃香を励ますように。
「あなたと別れます。離婚届、署名と押印してください。書いたら保坂さんを通じて渡してくれたらいいから」
火乃香がバッグから離婚届を出すと、春翔は泣きくずれた。
「さよなら。春翔さん。離婚届、なるべく早く渡してね」
火乃香は立ちあがり、面会室を去った。
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