第33話 柘榴
順調に悪の芽が育まれる。
つわりはとっくにやみ、春が来た。桜が咲き、散り、スイカズラや藤がひらく。牡丹の開花を告げるニュース。近くの公園は新緑に萌え、道端にはヒメジョオンの白い花がひっそりと。
ベランダに春翔の残した鉢植えも花をつけた。ミニバラやサボテン。名前のよくわからない観葉樹が何鉢か。エバーグリーンとかなんとか。それに、
柘榴は鬼子母神の言い伝えのせいか、なんとなく怖いイメージがある。ギッシリ実がつまることから、『結合』なんて花言葉もあるし。
枯れてしまえばいいのに、雨がかかるのか、手入れしなくても、生きのびている。
まだ火乃香のお腹は目立たない。柘榴が丸々とした実をつけるころには、火乃香の腹もあんなふうにふくれあがるのだろうか?
このごろでは胎動も活発になり、いよいよ気持ち悪い。自分はここにいる、ただのコブではないと無言で主張する。
やっぱり、おろしてしまえばよかった。でも、そうすると生活に困るのは確実だ。火乃香の経済力では今の暮らしを保てない。いまいましいけれど、この果実にはたくさん栄養を吸わせなければならない。
春翔は帰ってこない。ずっと拘留され、取り調べを受けている。起訴処分になったので、実質、保釈は難しいらしい。ちょっと前、姑は春翔を保釈させようと、やっきになっていたが、たぶん、請求は棄却されたのだろう。
春翔自身は容疑を否認している。しかし、状況証拠がそろっていた。凶器はその日しめていた春翔のネクタイ。鍵は春翔だけが持っていた。室内の指紋に不審者のものはなく、抵抗したらしき成海の爪のあいだには春翔の皮膚片。裁判になれば有罪確定だ。
拘置所からいくつも手紙が送られてきた。火乃香はしかし、それらを一つも読まずにやぶりすてている。春翔の言葉は信用ならないとわかったから。
マンションの外にはマスコミがつめかけていたが、一歩も出ないので、それも遠雷にすぎない。
今の静かな暮らしは悪くない。赤いドレスの友達や、舌をベロリと出した成海が視界をよぎり、ときおり背筋を凍らせるものの、前よりすべての感覚がにぶかった。世界とのあいだに薄い壁があり、自分と赤ん坊だけがその内にある。絶対的な結界。
だが、そこに春翔の弁護士が押し入ってきた。どうしても春翔が会いたがっているのだと、しつこく電話をかけてくるばかりか、マンションまでたずねてきた。
「わたしは会いたくありません。それより、離婚届に判を押してもらいたいんですけど」
「姫原さんは離婚する気はないですよ。あなたの誤解を解きたいと願っておられます」
「誤解なんてありません。あの人は嘘つきですから」
「そのへんもふくめて、一度でいいので面会しませんか? 離婚の話もそのときにならすると、姫原さんはおっしゃっています」
「……」
火乃香は迷った。でも、離婚は成立させたい。裏切られたと恨みながら、春翔に縛られるのはイヤだ。早く忘れてしまいたい。
もちろん、火乃香がそう思うのには、凛の存在があるだろう。自分でも、どんどん惹かれていくのがわかる。月に一度のパーティーも毎月招待されるようになった。今度は火乃香自身として。
一人でさみしいので、ひんぱんに最上階をおとずれるし、凛も逆にやってくる。最初は心霊現象がまだ起こるのか、起こるならどんな状態で、どんな体験なのかを話すため。訪問の理由があった。でも、近ごろはただお茶を飲むことも多い。
「いつでも来てください。この部屋は君のためにあけておくから、僕がいなくても自由に使っていいよ」
そんなふうに言われて、最上階のなかの一区画三室を示された。広い寝室と落ちついたリビングルーム。それに、使いやすいデスクのあるアトリエ。ベランダに面して絶景がながめられる。
「もうプロポーズされたもいっしょだね。実質、同棲だよ。いいなぁ。あんな豪華な部屋に、わたしも住んでみたい」
なんて、要女には言われたものだ。
「そんなことないよ。わたしは霊が見えるから、凛さんにとっては研究対象なんだよ」と、火乃香は自分に言い聞かせるつもりで弁明する。
凛の本心はわからない。でも、ほんとは、火乃香が彼に惹かれているくらいには、凛も好意をよせてくれているような気はしていた。なんとなく、そういう空気は肌で感じるものだ。
あるときは、こんなふうに言いかけることすらあった。
「火乃香さん。君の離婚が成立したら……」
火乃香が顔をあげると、凛ははにかんだようすで口をつぐむ。きっと、彼はプロポーズするつもりだろう。
「ええー! 二人、つきあってんの? ズルイなぁ」
「違うよ。凛さんはとっても紳士だから」
火乃香が妊娠しているので、体を気づかってくれる。肩を支えたり、手をひいてくれたり。でも、それ以上のことは決してしなかった。キスすら一度もない。
きっと、凛は火乃香が離婚するまではふれないと自らの心に誓っているのだろう。
火乃香にもそれがありがたかった。
穢らわしい種子を植えつけられて、その実がうごめきながらふくらんでくる。生理的嫌悪に吐き気がする。
今の状態で、むやみにふれられたくない。ふれられると、そこから感染し、凛への恋情さえも穢されそうな気がする。凛はそれを知らないはずだが、気づかいが嬉しい。
凛を受け入れるためにも、春翔との関係は清算しなければならない。会うなら、お腹の目立たない今のうちだ。今ならまだ、ウエストのフワッとしたワンピースを着ていけば、ごまかせる。
「わかりました。面会します」
「明日にでも?」
「……はい」
そんなわけで、春翔に会う約束になった。
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