第31話 殺人犯春翔
数瞬後には我に返り、火乃香は隣室の宮眉家に逃げだした。警察を呼んだのは優子の夫だ。
すぐにパトカーがやってきて、そのあと火乃香の部屋は刑事だらけになった。部屋じゅうを鑑識に調べられ、居場所がないので、そのまま、優子の部屋で休ませてもらう。
どうやら、殺人容疑で春翔が逮捕されたようだ。となりを見てきた優子が教えてくれた。
「今、ご主人、パトカーに乗せられていきましたよ。両手に手錠をかけられてたわ」
言われても、あまりショックではない。あの状況では、春翔がやったとしか考えられなかった。
部屋には火乃香と春翔が持っている以外の合鍵はない。だとすれば、火乃香の留守のまに浮気相手をつれこんだ春翔が、酔ってケンカになり、とっさに首をしめたのだ。ネクタイの柄にもおぼえがあった。あれは去年の誕生日に、火乃香が春翔にプレゼントしたものだ。
どっちみち、夫婦の仲はもう終わっていたので、それはどうでもいい。
気になるのは、あの汚れた布団やベッドをどうしようということだ。部屋の匂いもちゃんととれるだろうか? プロの清掃業者に頼まないと。
そんなふうに思っていたら、警察が布団を持っていってくれた。成海の体液の成分を調べて、そこがまちがいなく殺人現場である証拠品にするためだ。これは、ありがたい。
「今夜はうちに泊まりなさいな。客室がありますからね」
「ありがとうございます」
厚意に甘える。火乃香の部屋には、まだ黄色いテープが張られ、警察から入室を禁じられていた。
「要女さんを呼びましょうね? 火乃香さんもそのほうが気がまぎれるでしょ?」という優子を呼びとめる。
「待ってください。優子さん。じつは相談があって」
優子が案内した客間には、火乃香と二人しかいない。政夫は風呂に入っているから、ここでの話し声を聞かれる心配もなかった。
「一大事ですものね。弁護士かしら? 春翔さんを助けたいの?」
火乃香は首をふった。
いざ話すとなると、ためらいをおぼえたものの、今日はもう朝からいろいろありすぎて、感情が焼き切れたように、どこかマヒしている。ポツポツとではあったが、妊娠について話せた。
「まあ、赤ちゃんが……でも、中絶したいのね?」
「春翔さんが殺人犯になって、わたし一人じゃ育てられないと思うんです。離婚するかもしれないし、マスコミに追いかけられるのもイヤ」
ほんとの理由を隠せたのは幸運だ。そういう点では、春翔に感謝してもいい。
反対されるかと思ったが、優子は賛成してくれた。
「一人で育てるのは難しいと思うわ。とくに今のような状況ではね。春翔さんは無罪になるか、有罪になるか、まだわからないけど、世間は一度でも疑惑に染まった人をゆるさない。殺人犯の子と罵られて苦しめるより、いいかもしれないわね」
「それで、内密に中絶してくれるお医者さんを知っていたら、紹介してほしいんです。優子さんたちご夫婦は、このマンションの会に入っているんでしょ?」
例の友の会だ。タワーマンションの住人たちが集まって、富裕層だけのクラブを作っている。
「ええ、ええ。クラブ・クラブね」
「クラブ・クラブ?」
「英語で
「蟹のクラブなんですか?」
「美食家の集まりなのよ。蟹やウニ、フォアグラ、キャビア、フグ、松茸、ジビエ……旬のお料理を楽しむの。創始者は萱野博之さん。凛さんのおじいさまよ」
凛の祖父がそんなに蟹好きだったとは、なんとなく意外だ。たしかに蟹は高級料理の一つではある。美味しいものを食べるための美食家のつどい。いかにもお金持ちの趣味だ。
「そのクラブの知りあいに産婦人科のお医者さんはおられませんか?」
「いるにはいるけど、中絶反対派なのよ。あの人」
中絶反対派……それでは処置してもらえない。火乃香がガッカリしていると、優子は思わぬことを言いだす。
「でもね。里親は探してくれるわよ。変に中絶するより、生んですぐ里親に引き渡すほうが、あなたの体にもいい。中絶すると、子どもができにくくなる危険性があるのよ?」
「でも……」
火乃香は生みたくないのだ。汚れた血からできた汚れた肉を、これ以上、大きくしたくない。一日たりと、自分のなかを荒らしてほしくない。狐姫も怒っている。
だが、こう言われて気が変わった。
「ねえ、火乃香さん。厳しいようだけど、もしも、もしもよ? 春翔さんがほんとに殺人犯として収監されたら、あなた、どうやって生活するの? このマンションも春翔さんの仕事の都合で住んでるんでしょ? だったら、後継者ができなくて困ってるクラブ会員がいるのよ。里親になってもらうかわりに、あなたの生活の保証をしてもらったほうがよくないかしら? たとえば、今の部屋をあなた名義で買ってもらうとか。お仕事のコネなら、わたしたちもしてあげられるし、そのほうがあなたも先行き安心よね?」
子どもを渡すかわりに、大金をもらう。それってつまり、人身売買では?
そうは思った。でも、コレは赤ちゃんではない。悪性の癌だ。火乃香の望まぬ形で植えつけられたカビた種子。
「……わかりました。お願いします」
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