第29話 悪い種子



 暴力によって強引に注入された悪い種子が、火乃香の養分を吸収し、コブのように大きくなりつつある。胎内をわがもの顔で占拠する癌細胞。肉の形をした汚物。


 火乃香は自分の体が目に見えない何かに侵食されていく感覚におちいった。

 だが、それを誰にも言えない。


(どうしよう……)


 今すぐにでも体の外へひきずりだしたい。だけど、病院へ行くのもはばかられた。妊娠しているとわかれば、火乃香の一存で中絶はできないだろう。ことによると、病院から春翔に連絡が行くかも? 夫か両親に相談してくださいと言われるに違いない。

 それでも強硬に中絶を望めば、隠してきた秘密を春翔に知られてしまう。自分の心あたりがない子どもを宿した火乃香から、春翔の心は完全に去っていく。


 火乃香は青ざめてふるえることしかできなかった。凛に手をひかれて本堂に戻ると、とりあえず、お祓いをされた。狐姫の呪いがかからないようにと。


 呪いはもうかかっている。

 なぜなら、火乃香の腹の子に狐姫が怒っているからだ。姫原家の長男の嫁でありながら、春翔以外の男の子を宿したから。でも、それは火乃香の望みではない。


(イヤだ。このまま大きくなったら……どうしたらいいの? 誰か助けて!)


 望まない子どもを得た上に、そのために呪われるなんて、不幸のダブルパンチだ。火乃香の心は疲れはて、何も感じられないまま、いつのまにかバス停についていた。言われるがままに乗ったものの、住職が車で送ってくれたように思う。タクシーみたいな黒ぬりの高級車だった。


「火乃香さんがそういう体調だとわかってたら、一人で来たんだけどね。ムリさせてごめん」


 凛がいたわってくれるのが、ただ心苦しい。優しい言葉をかけてもらうと、すがりたくなる。何もかも打ちあけて、この苦しみから解放してもらいたい心地になって。


 でも、そんなことできるわけがなかった。要女ならどうだろうか? それとも優子なら?


 そう。優子なら、人生経験も豊かだし、もしかしたら、春翔にナイショで堕胎だたいさせてくれる医者を紹介してくれるかもしれない。


 そうだ。優子に相談しよう。それがいい。きっと何もかも解決してくれる。このけがらわしい肉塊を安全に火乃香の腹からとりだしてくれるだろう。


 希望の光が見えた。こうなると、早くマンションへ帰りたい。ちょうどやってきたバスに急いで乗りこむ。


「乗り物酔いしない? バスはゆれるから、タクシー呼ぶけど?」

「もう大丈夫」


 凛が言ってくれたものの、一刻も早く帰るほうが先決だ。走りだすバスの窓からは、古稀善寺が見えた。そこから遠くなっていくと思うと、ホッとする。呪いからも遠ざかる気がした。


(お祓いも受けたし、もう大丈夫。それにこの子どもをおろしてしまえば……)


 そういう願望をこめて、樹木のあいだに見える寺の屋根や石段をながめる。どこにも異常はない。

 雲のあいまから日差しがふりそそいできた。キレイな天使のはしごが現れる。ビルの建ちならぶ都会では、なかなか見られない光景だ。空の広い平原だからこその景色だろう。天使が祝福のラッパを吹きならす音さえ聞こえてきそうだ。


 よかった。呪いは解けたのだ。もう恐ろしい怪異は何も起こらない——


 安堵しつつ、火乃香は視線をバスのなかへ戻した。最後尾の広い席に凛ととなりあってすわっている。客は二人だけだ。バス停に二人しかいなかったし、乗ったとき、車内は無人だったのだ。なのに、運転席のすぐうしろに女がいた。座高が高いので、いやに目立つ。


(いつのまに?)


 胸がざわつく。

 似ているのだ。髪の長いあの感じ……臼井成海じゃないだろうか?

 まさか、まだ火乃香のまわりにつきまとっていたのか?


「凛さん……」


 凛の服をひっぱって、助けを求める。


「やっぱり酔いそう? 酔いどめ、どっかに売ってないかなぁ」

「違うの……」


 火乃香は目線で前方の席を示した。だが、さっきの席には誰もいない。


(……錯覚?)


 そう。錯覚だ。きっと、長いあいだ緊張していたから。それに、あんまり寝てないし。つわりが重いし、車にも酔ったし、あんな男の子どもなんて生みたくないし、春翔にも凛にも知られたくないし、穢らわしい種子を宿してしまうなんて、自分の体が気持ち悪いし、ほかにもたぶんたくさん原因はあるし。

 だから、絶対に違う。

 違うはず。


(違うと言って)


 まだ呪われてるなんて。

 そんなこと、あるはずない——

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