第28話 白狐の姫



 やせがたで、どことなく狐っぽい住職が、火乃香と凛の前に湯呑みを置く。二人は本堂にあがり、薄くなった座布団の上で正座していた。


「心霊研究家ですか。姫原の狐姫伝承について聞きたいと?」


 まずはとっかかりとして、凛は自分の肩書きを利用した。


「各地の古い言い伝えを集めているんです。そのうち、本にしようと」


 どこまで本気なのかわからないが、凛はそんなふうに言い、住職の警戒をとく。

 凛の家は大金持ちだから、実質は趣味の研究でヒマをつぶしているだけではないかと思う。火乃香たちが住むタワーマンション以外にも、いくつも不動産を持っているらしいので、そこから得る家賃収入だけで充分すぎる贅沢ができる。


 しかし、それだけに身なりはいい。今どき、ダブルの三つぞろえなんて、なかなか着ない。住職は信用したようだ。姫原の狐姫伝説を語りだす。それはすでに凛から聞いて知っていることだった。凛は住職と話しながら、新しい事実をひきだそうと試みている。


 二人の会話を火乃香はぼんやり聞いていた。本堂が薄暗いせいか、急速に眠くなる。毎日、寝不足なので、急におとずれた睡魔にあらがえなかった。


 夢のなかで、誰かが寺の庭を歩いている。奥からじょじょに本堂にむかってきていた。苔の密集した庭の飛び石をふみ、近づく足元が見える。草履ぞうりをはいた足。千鳥に流水紋様の着物。室町時代のお姫さまのように、薄絹をかぶせたかさをかぶっている。おかげで、顔が見えない。手に鈴のついた杖を持っているので、その人が歩くたびに、リンリンと音がした。


(誰なの? なんでこっちに来るの?)


 答えはない。ただ、鈴音が響く。その音が近づくたびに、火乃香の体は重くなった。お腹が熱い。内側から火を噴いているようだ。


 怒っている?

 あれは狐の姫だ。姫原家を守る狐姫が怒っている。


 逃げだしたいのに、火乃香は微動もできない。完全に金縛りだ。鈴の音が本堂のすぐ外までやってきた。


(助けて。誰か。凛さん……)


 火乃香の声は誰にも聞こえない。そもそも、これは夢だ。夢のなかまでは助けに来れない。

 なんとか夢からさめればいい。わかっているけど、目をあけられない。まぶたが細い糸で縫いあわされているかのようだ。


 雨戸のすぐ外まで、その人が来ている。じっと、こっちをにらんでいるのが、雨戸ごしに感じられた。


(来ないで。こっちに来ないで)


 願っていたのに、その瞬間、戸口が大きくあけはなたれた。着物姿の白い狐がとびこんでくる。目の前に立つと、錫杖しゃくじょうに似た鈴の杖で、火乃香の腹を打った。


(痛い!)


 そこで、ハッと目がさめた。もちろん、白狐はいない。凛と住職がおだやかな声で会話している。


「じゃあ、その巫女の家系は絶えてしまったんですね?」

「巫女と言っても、村人たちがあがめてただけだからねぇ。なんでも昭和の初めまでは夢見の巫女とか言って、狐姫の言葉を告げて、いくらかの報酬をもらってたんだが。世界大戦を予言したとかいう話だがね。ほんとだかどうだか。でも、だんだんその力を持つ女がいなくなって、そのうちに村から出ていったらしいね」


 二人の話し声は続いていたが、火乃香は強い吐き気を感じて立ちあがった。


「すみません。お手洗いは……?」

「ぐあいが悪そうですね。大丈夫ですか?」

「顔色が悪いね」


 二人が気づかってくれるのは嬉しいのだが、猶予ゆうよがなかった。もう喉元までこみあげている。

 火乃香は本堂をかけおり、庭へとびだすと、そこで吐いた。胃のなかがカラッポになるまで吐きだしても、嘔吐おうと感はやまない。


 追って本堂をおりてきた凛が歩みより、背中をさすってくれた。が、それさえもツライ。ハッキリと惹かれている相手にこんな姿や吐瀉物としゃぶつを見られるのは、この上なく恥ずかしい。あたりに漂う酸っぱい匂いにも泣きたい気分になった。


 それだけでも自分がなさけなかったのに、次の瞬間、凛の放った言葉は、火乃香を恐怖につきおとした。


「火乃香さん。もしかして、妊娠してるの? だとしたら、長い道を歩かせて申しわけなかったね」


 火乃香は羞恥心もふきとんで、凛の美しいおもてを見なおした。凛はまるで慈しむような目で火乃香を見ている。


「違った? つわりかと思ったんだが」

「……」


 なぜ、今まで一度も思いいたらなかったのだろう?

 そうだ。このところずっと食欲がなく、食べてもすぐ吐きもどした。もう二週間以上も続いている。

 それに、があってから、そろそろ二ヶ月だ。


 まちがいない。

 あのときの子だ。


 火乃香のなかにバラまかれた悪の胞子が、忌まわしくも根づき、芽吹いたのだ。

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