第26話 古い呪い?



 お茶を飲んで落ちついたあと、ようやく、火乃香は当初の目的をはたせた。つまり、昨夜の春翔のふるまいについて相談したのだ。近ごろよく見る幻覚についても。


 すべてを聞いて、凛は深い思案の表情を浮かべている。


「夢の内容は、君の精神面の影響だろうと思う。心労が度重なり、疲弊しているんだ。科学的に考えれば、まあ、そうなるよね。でも、この前、要女と地下駐車場で見たという女や、さっきエレベーターで会った女にまとわりついていた赤ん坊は、夢じゃない。毎夜、寝不足だと言ったね?」

「よく寝られなくて……」

「そのせいで、半睡状態の脳が夢に影響されて、幻を見た——と言えば、いちおう合理的な説明はつく」

「……」


 やはり、そう言われてしまうのか。ほんとのところ、火乃香自身も自分の精神状態を疑っていたのだ。これまで、心を病んだことはない。でも、このごろの立て続けの不幸は、もともとそれほど強固なわけではない火乃香の心を病ませても不思議はなかった。疲労と睡眠不足もピークだ。


 火乃香がしょんぼりしていると、凛は唇を指でなぞりながらつぶやく。


「だが、そうとも言いきれないかもしれない」

「えっ?」

「じつは、君の夫について調べたんだよ。ほら、前に臼井成海との浮気を調査すると言ってたろ?」

「はい」


 そういえば、そうだった。正直、結果はわかっている。春翔は成海と浮気している。


「昨日の電話の相手、臼井成海でした。スマホごしだったから、喫茶店で聞いたときとは少し印象が違ってたけど、でも、どこかで聞いた声だったし」

「それについては……言いにくいが、疑う余地がない」


 凛はいったん立ちあがり、壁ぎわのチェストのひきだしから、茶封筒を出した。なかには写真が何枚か入っている。成海と腕を組んで歩く春翔だ。服が今年買ったコートだから、最近の写真で間違いない。


 悲しいけれど、あまりショックはおぼえなかった。すでに知っている事実にすぎないからだ。言ってしまえば、諦観。


 しかし、凛の本題はそれではなかった。


「調査の過程で、臼井と君の夫の素性も徹底的に調べた。するとね。君の夫の実家、変わった伝承があるね」

「伝承?」


 なんだろう?

 そんな話、春翔からは聞いていない。


「どんなですか?」

「君の旦那、姫原姓になったの、なぜだか知ってる?」

「あのへんの地名が姫原だからだって。春翔の実家は地方の旧家なの。昔は庄屋だったって聞いたことが」

「まあ、間違ってはないけど」


 さっきの茶封筒から、今度はA4サイズの文書がとりだされる。細かく文字がならんでいる。ちょっと読むのをためらう分量だ。


「これは?」

「僕が知りあいの探偵に調べさせた調査結果だ。それによると、戦国時代の初めごろ、平原に高貴な身なりの若い女が倒れていた。旅の僧侶が通りかかり、それを見つけた」


 凛は報告書の内容を簡潔に説明する。


 どこかから落ちのびていく途中だったのか、まわりには家来とおぼしい死体がいくつも折りかさなっていた。姫だけがまだ息があった。僧侶は姫をかかえ、近くの無住の寺へつれていった。何日も丁重に介抱すると、姫は持ちなおした。


 が、目をさました姫はとつぜん、獣じみた行動をとり、走っていった。僧侶があとを追うと、姫は最初に倒れていた野原へ帰った。そこには鎧をまとった侍ではなく、何匹もの狐の死骸があった。姫は嘆き悲しみ、自害した。むくろはいつのまにか、白い狐に変じていた。彼らは狐の化身だったのだ。


 哀れに思い、僧侶が狐たちを葬り、ねんごろにお経を唱えると、空からたくさんの金銀が降ってきたという。僧侶はその地にとどまり、金銀を元手に屋敷を建て、田畑を手に入れた。やがて、その地方随一の地主になった。それが、姫原家の始まりだ。


「お坊さんなのに還俗げんぞくしちゃうんですね。変わった昔話」

「一説によると、介抱しているうちに二人はねんごろになり、狐の姫は死ぬ前に子どもを残したらしい」

女犯にょぼんっていうんじゃなかったですか? 昔のお坊さんは厳格に女にふれるのを禁じられてたって、何かの本で読んだんですが」

「そこは相手が狐だから、妖術でも使ったのかな?」


 凛は両手をひろげて肩をすくめる。


「この狐姫が姫原家の守護神になってくれた。子孫を守っているらしい。だが、祀りかたが気に食わないと、祟るというんだ」

「祟る……」

「家の長男の嫁が、いわゆる狐憑きになってしまうようだ」


 ドキリとした。

 春翔は長男だ。そして、火乃香はその嫁である。

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