第25話 幻視の日々
二十九階につくと、女はこっちを見もせずに出ていった。閉じていくドアのあいだから、女の背中が見えた。その姿は首から上が異形の化け物のようだ。骨の
カラカラという音が遠ざかる。
ドアが閉まると、エレベーターは自然に上昇した。ふたたび、ドアがひらいたとき、三十階の豪華な内装があった。
エレベーターの前に、すでに凛が来て待っている。かすかに微笑みを浮かべ、どことなく嬉しげに見える。
「いらっしゃい。火乃香さん」
凛の笑顔を見たとたん、火乃香は我慢の限界に達して、エレベーターのなかにくずれおちた。
「火乃香さん!」
凛がかけより、抱きあげてくれるのを、うっすらと感じる。耳元でつぶやいているのは、また夢の友達だ。
「今晩は美味しいステーキがいいよ。やわらかい子羊の肉」
「どうして?」
答えを求めても、幻視の友達はまた水槽のなかでバシャバシャやりだして、話にならなくなった。
ほんとに彼女はアレが好きだ。どうしてそう何度も殺されたがるのか。それとも、それが死者の性癖なのだろうか? 自分の死の瞬間を赤の他人に見せつけると、この上ないエクスタシーを感じるとか? 単に人知れず失われた自己の生命を惜しんでほしいだけなのかもしれないが。
現実と夢が交錯している。
フワフワ。ふわふわ。雲のなか。
見おぼえのある広いリビングルームの長椅子によこたえられ、意識をとりもどした。
「相談があるっていうから待ってたんだが、迎えに行けばよかったね。ぐあい悪いの?」
ぐあい……そういえば、吐き気はおさまっている。このごろ食欲はないのに、吐き気ばかりする。
答えないでいると、凛は立ちあがろうと腰を浮かせた。卓上のベルに手を伸ばす。
「飲み物を持ってこさせよう。紅茶でいいかな?」
思わず、火乃香は首をふった。飲み物なんて、どうでもいい。今は二人きりでいたい。
春翔は嘘つきだった。火乃香を裏切り、成海と二人で追いはらおうとしている。信用できるのは、もう凛しかいない。
火乃香が彼の服のすそをつかむと、凛は嘆息して、となりにすわりなおす。
「君はほんとに、あぶなっかしいなぁ」
「ごめん……なさい」
図々しい女だと思われただろうか? オカルト研究家だから、不可解な事件にばかり遭遇する火乃香を研究対象として興味を持っているだけだろうに。
ことあるごとに泣きついて、頼りたいなんて思ってしまった。火乃香はつかんだときと同様に、そっと凛の服を離した。
すると、逃げる火乃香の指を、凛の手が追ってくる。言葉もなく、ギュッとにぎりしめてきた。それは凛にしてみれば、ただ単になぐさめたかっただけなのかもしれない。それでも、火乃香の胸は急速に高鳴る。
近くで見ると、凛の長いまつげにふちどられた双眸は、どこか宇宙の深遠にしか存在しない神秘の結晶みたいだ。魔法のように、魅惑的。綺麗すぎる面ざしにドギマギして、火乃香は目をそらす。
が、そのあごのさきに、凛の指がかかった。重なった視線をそらさせまいとする。
「あ、あの……?」
この感じはもしかして、キスだろうかと、淡く期待をいだく。もしそうなら、そうなってもいい。この人となら……。
が、今度は凛のほうから手を離した。深々とため息をつく。
「申しわけない。君は亡くなった母に似てるもので」
「凛さんのお母さん?」
あの部屋のぬしだ。ほんとのお母さんの部屋を再現したという。以前、ここへ来たとき、あやまって入りこんでしまった。あのとき、スタンドの写真は見られなかったのだが。
なんだ。お母さんみたいな気持ちかと、失望する。が、凛は遠い日を
「中学のころに亡くなったと言ったろ? 母は病気だったんだ。とても美しい人だった。祖父によると、僕は母にそっくりなんだそうだ。でも、僕は母のほうが、より美しかったと思うよ。そこは女性だからね」
凛の母なら、それはもうビックリするほどの美人だったに違いない。
子どもにとって母親は特別だ。火乃香にとっても、実母だけが理解者だった。美しい母を多感な少年時代に亡くした凛が、母に対していだく愛情は、ふつうの男性よりはるかに深いだろう。
「君を守りたい」と、凛が言いだしたとき、やはりという気がした。
今は亡くした人の面影でもいい。すがってもいい理由ができた。そんな安心感があった。
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