第22話 冷めていく



 それから、何かが変わった。いつも捕食者の影におびえる子うさぎに生まれ変わった。変な夢もたくさん見た。


 信じられないことに、春翔は火乃香の身におきた変化に気づかなかった。顔をなぐられたので、目のまわりが赤くなり、体のあちこちにアザやかすり傷ができていた。なのに、それをなんとも思わなかったのだ。


 不貞ではない。不幸な事故だ。道を歩いていたら、とつぜん、すれちがった男になぐられたようなもの。

 それでも、春翔には知られたくない。バレないように化粧でごまかした。体のつながりがなくなっていたから、服の下のケガは見えなかっただろう。


 部屋の明かりを暗くして、春翔が帰ってくる前にベッドで寝たふりをしていると、戻ってきた夫は風呂に入り、着替えて、火乃香のとなりによこたわった。食事は外食ですませたようだ。このところ多い。まもなく寝息が聞こえ始める。


 背中をむけたまま、火乃香は自分の頬をすべりおちていく涙が、耳のよこから髪のあいだに入っていく不快感に耐えた。


 知られたくはない。でも、心のどこかでは気づいてほしかったのだ。そして、いたわってほしかった。火乃香の身に起きた悲劇をいっしょに嘆き、犯人に憤り、一晩じゅう抱きしめて、「なんでもない。こんなことはなんでもない」と優しくささやいてほしかった。


 だが、じっさいの春翔は火乃香など見むきもせずに、いびきをかいている。仕事で疲れているから? いや、違う。無関心だからだ。新妻の変化にまったく気づきもしないなんて、終わってる。


(嘘つき……)


 守ってくれると言ったのに。大切に守って、幸せにすると言ったのに。

 火乃香がこれほど助けを要しているときに、気づきもしないなんて、それじたい裏切りのような気がした。


 フワフワ。魂の生きてる実感がない。


 むしろ、要女のほうが敏感に火乃香の変化に気づいた。数日、部屋にこもったあと、要女がいきなり部屋をたずねてきた。電話にも出なかったから、心配したのかもしれない。


「おーい、火乃香、大丈夫? 風邪だっていうけど、もう治った? ねえ、あけてよ。下の置き配ボックスに配達品が置きっぱなしだから持ってきたよ」


 目のまわりのアザは紫から黄色に変わり、だいぶ目立たなくなっていた。ほんとは大事をとってもう二、三日、誰にも会いたくなかったのだが。交換したLINEで、風邪をひいたから治るまで会えないと、前に一度書きこんでいた。それを信じてくれればいいと思いつつ、しかたなくドアをあける。


 とたんに、要女はギョッとした。息をのんで絶句したのち、あわててダンボールを足元に置き、火乃香の頬を両手で包んでくる。


「ちょっと、これ、なぐられたの? まさか、旦那に? DV?」

「えっと、あの……」


 ひとめでバレてしまった。でも、そのアザができたほんとの理由は明かせない。迷ったすえ、火乃香はうなずいた。どこの誰とも知れない男に犯されたと言うより、夫のDVだと思われているほうがまだマシだ。


「ほんとに? 大丈夫なの? 病院は? ヒドイ。風邪ひいたなんて、じゃあ、嘘だったんだね?」

「うん……」

「ちょっと、それ、いつから? いつもなの? もしそうなら警察とか、そういう団体に相談したほうがいいよ。女性保護団体とか、DV被害者の会とか、なんかあるでしょ」

「あのときはたまたまで……春翔さん酔ってたし、それに、凛さんと浮気してると勘違いしたみたいだから」

「ああ、あのときのね」


 先夜のお泊まりの件があったので、要女にも納得してもらえた。思わず、ホッと安堵の息がもれてしまう。


「じゃあ、ほんと、常習じゃないんだね?」

「うん。あのときだけ。あとで謝ってくれたし」

「ならいいけど、困ってたら相談してよ?」

「ありがとう」


 要女に誘われて、ひさしぶりに宮眉家でランチをごちそうになった。そのひとときは近ごろの鬱屈うっくつをすべて忘れられた。


 だが、そのあとくらいからだ。日常的にを見るようになったのは。


 高校生のころ、よく見たのは夢だった。たとえ、ただの夢と言ってしまうには説明のつかない事実がまざっていたとしてもだ。現実のなかにまでがあふれてくるわけではなかった。


 でも、今回は違う。

 マンションのなかから一歩も出ない生活だから、当然ながら場所はマンション内。

 あれ以来、一人で駐車場には行けないが、どうしてもコンビニだけでは買い物をすませられない。毎日外食にするほど贅沢もできない。あの忌まわしい場所に行くときは、必ず要女か優子についてきてもらった。


 最初にソレが起こったのは、とうとつだ。


「旦那、外食ばっかりなんでしょ? もう食費渡して、優子さんに毎日作ってもらったほうが早くない?」

「でも、さすがにそれは図々しいよ」

「今だって、ほぼそんなもんじゃない? 食費払うだけ誠意ある」

「たしかに」


 要女と笑いながら話し、エレベーターをおりたときだ。

 とつぜん、頭の奥を空気の圧力でグッと押さえつけられるような感覚を味わった。立ちくらみがして、よろめく。ビーン、ビーンとふるえるような轟音ごうおんは、耳鳴りだったのか?


 駐車場の奥から、何かが近づいてくる。

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