第21話 くだけたビスクドール
瞬間、火乃香は成海だと思った。上背も男のように高かったので、背後から抱きつかれたとき、成海が自分を殺しに来たのだと勘違いした。恐怖にすくみあがる。
だが、背後から届いたのは女の匂いではなかった。汗まじりの濃い体臭。男だ。それも火乃香の知らない男。悲鳴をあげるが口をふさがれていた。抵抗不可能な腕力で自動車のかげにひきずりこまれる。
口をふさぐ指に必死でかみつくと、なぐられた。まず顔を。そのあと腹を。さらに平手で顔を往復。痛みで意識が遠くなる。
コンクリートの床にひきたおされたときには、もう目をあけていられなかった。閉じかけるまぶたのすきまから、火乃香は見た。離れた柱のかげで、こっちを見ている女を。つばの広い帽子をかぶり、大きなサングラスをつけている。女の口元がグニャリとゆがんだ。粘着質なイヤな笑み。
(臼井……成海……?)
そのまま気絶したのは、火乃香にとってはむしろラッキーだったのかもしれない。不快な屈辱をできるかぎり、味わわなくてすんだから。
全身を圧迫する重みと息苦しさと下半身の違和感で、ふたたび意識をとりもどしたときには、もうほとんど、終わりかけていた。うごめいていた男が無情にしぼりだしてくる。悪意が熱くとびちる。
火乃香が泣きながらうめくと、男は口をふさいでいた手を離し立ちあがった。スーパーの制服を着ているが、いつもの人ではない。逃げていくよこ顔は見知らぬ男だ。いかにも柄が悪く、スーパーの制服が恐ろしく似合っていない。
チラリと見ると、柱のかげの女はもういなくなっていた。
臼井成海の計略だ。成海が男をけしかけてやらせたのだ。あるいは金を払って雇ったのかもしれない。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
どうしよう。どうしよう。
どうしよう。
涙とその言葉しか湧いてこない。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
どうしよう。どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
どうしよう。どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
どうしよう。どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
どうしよう。どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
心が壊れそう……。
散り散りになりそうな何かを必死につなぎとめていた。
子どものころに大切にしていたビスクドール。母が祖母からもらったという形見のお人形。青い目のとてもキレイな。
妹が小さいとき、貸して貸してとしつこかった。汚れたり、傷つけられたらイヤだから、絶対にさわらせなかったのに、火乃香が学校に行ってるあいだに勝手に遊んで階段から落とした。火乃香が帰ったときには、あれほど綺麗だったお人形は、粉々の残骸になっていた。
もとに戻したい。でも、戻らない。くだけた破片をかき集めても、決してくっつかない。たとえ、強力な接着剤でカケラの一つ一つまでつなぎあわせたとしても、美しい顔には蜘蛛の巣の模様。二度ともとの姿にはなおせないのだ。破壊の
妹を泣きながら責めた。すると義母が陶器のカケラで妹にケガをさせたと逆に叱ってきた。義母も妹も殺してやりたいと思った。絶対に一生ゆるさないと心に誓った。
母の大切な形見だったのに。大事なものを壊されたのに。なんでこっちが悪く言われないといけないのか。悔しい。悲しい。腹立たしい。切ない。悔しさと殺意がふくれあがっていく。
あのときの気持ち。
ひろっても、ひろっても、手の内からこぼれていく。チクチクと指に刺さる。痛み。カケラ。流れる血。
完全に放心していたが、人の近づいてくる気配があった。エレベーターが降りてくる。火乃香はあわてて奥の壁ぎわまで這っていった。
こんな姿、誰にも見られたくない。
ほんとはもう芯までヒビだらけで、ちょっと動けばパラパラと表面からくずれていく。そんな醜いガラクタの人形だとあばかれたくない。
マンションの住人のようだ。エレベーターのドアがひらき、老夫婦が話しながら出てくる。
「
「まあまあ、いいじゃないの。今月中には行けるでしょ」
「だといいが、これで三回めだ。あっちが約束たがえるなら、出かたってもんがある」
「大丈夫ですよ。もう支払いはすませてるんですから、どうしたって渡さないわけにはいきませんよ。それに育ってからのほうがいいでしょ?」
彼らは自分たちの会話に夢中で、こっちにはまったく気づいていない。二人が青色のハイブリッド車で去るのを待って、火乃香はエレベーターに乗りこんだ。
壁にすがりつつ、どうにか二十三階の自宅へ帰った。シャワールームにかけこむと、やぶれた下着を汚物のようにぬぎすて、熱い湯を浴びる。床にしゃがみこむと、涙があふれた。
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