第20話 いまわしき襲撃者



 半月がすぎた。

 けっきょく、成海は捕まらなかった。自宅や仕事さきを調べられたものの、そこへも立ちよっていなかった。どこかのホテルにでも逃げこんだのかもしれない。


 火乃香にとっては恐怖の日々だ。あのとき浴びた成海の悪意。あの言語に絶する憎しみが脳裏にこびりついて離れない。


 成海が捕まらないかぎり、安寧はどこにもなかった。つねに誰かに見張られているかのような、とがった視線を感じる。春翔は気のせいだと言うが、おかげで火乃香はマンションから一歩も出られなくなった。


 それならそれで、何不自由なく暮らしていける。買い物はネットスーパーですむし、なんなら、マンションの一階にあるコンビニでも、たいていのものはそろう。イラストの仕事はEメールでことたりた。しあがった絵もデータのやりとりですむ。


「そこまで神経質にならなくても問題ないよ。前だって、忍びこんだけど、けっきょくオバケのふりしただけだろ? ほんとに危害をくわえるなんて、アイツにはできないんだよ」

「……」


 春翔はそんなふうに言うが、火乃香は確信していた。あれは火乃香を殺すつもりの目だった。あきらめるなど絶対にないだろう。春翔は自分があの目で見られたわけじゃないからわからないのだ。


 しかも、やはりかつての恋人に対してだからか、かばうような口調になるのがゆるせなかった。夫を信じないわけではないけど、喫茶店で成海が言った言葉がひっかかっている。あのとき、成海はこう言った。



 ——あなたに頼まれたからじゃない。



 もしかしたら、やはり春翔は火乃香を裏切っているのではないか?

 成海が共犯だから、かばっているのかも……。


 愛する夫を信用できない。鬱屈うっくつとした思いが、やまず降りつもり、じわじわと心の底面を侵していく。


 外にも出られないので、せめて、優子や要女とランチパーティーしたい。でも、それも春翔がいい顔をしない。最初に出会ったとき、春翔に断りなく泊まらせていたことを、まだ怒っているようだ。


 いつものように朝、玄関口で、仕事に行く春翔を見送る。しかし、二人とも無言で、なんとなく沈黙が重い。


「今日は帰り、何時ごろ?」


 無言にたえきれなくなって、火乃香がたずねても、春翔は「いつもどおりだよ」と、そっけなく返すばかりだ。そのまま、カバンをとって出ていった。


 夜も一つベッドによこたわりながら、背中あわせに眠る。そんな日が続いている。これでも夫婦の意味があるのだろうか? 今のままだと、いつか離婚を切りだされるのではないかと、毎日おっかない。不安で、不安定で、ふわふわした暮らし。暗い雨雲のなかを歩いているみたい。


 早く子どもが欲しい。二人のあいだの子どもが。そうしたら、少しは安心できる。


 以前、生理がなかなか来ないので、薬局で買った検査キット。春翔が出かけたあと、トイレにこもって検査してみた。が、キットに嬉しい変化はなかった。火乃香の体はいまだ命一人ぶん。奇跡の魔法が新しい命を運んできてはいないと、無情に告げている。


 検査はこれで三回めだ。もしかしたら、まだ試薬に反応が出ない時期なのかもと何度も試した。でも、結果は同じ。最後に春翔とふれあったのが引っ越し前だから、ひと月以上経過している。正確に言えば四十五日。やはり、ただの生理不順のようだ。


 もしかしたらと期待していただけに悲しい。まだそこになかったはずなのに、すでにあったものが失われたかのような気がする。

 かすかに感じたような気がした鼓動。でもそれは幻覚だった。

 その報告だけが夫婦の現状を打破してくれる可能性だったのに、望みをなくして、火乃香は途方に暮れた。

 もうダメかもしれない。このまま、ズルズルと仮面夫婦を演じるだけなのか……。


 そんな気持ちのせいで注意が散漫になっていたのかもしれない。いや、というより、あれは不可抗力だった。


 近所のスーパーのオンライン注文を、いつものように利用した。二、三日に一度、食料品を届けてもらう。


 マンションは地下駐車場に置き配用のボックスがある。エレベーターのすぐ近くだ。各戸に完備ではないが、一回ずつ発行される暗証番号で開閉でき、住人なら誰でも利用できる。


 部屋のインターホンが鳴り、見なれたスーパーの配達員の顔が映った。


「いつもお世話になっております。ご注文のお品をお届けに参りました」

「置き配ボックスに入れてください」

「ありがとうございます。またのご利用をお待ちしております」


 毎度のやりとりのあと、火乃香は部屋を出て、エレベーターに乗った。以前、春翔の車に乗った女を目撃した地下駐車場。あれ以来、どうもこの場所が苦手だ。


(サッととって、サッと帰ろう)


 自分が降りたあと、エレベーターがあがらないように、そっちばかり見ていた。指定したナンバーのボックスを急いであける。たくさんの車がならぶ駐車場に背をむけて、火乃香にはけっこう重労働なダンボール箱をとりだそうと腰をかがめる。


 そのときだ。

 とつぜん、背後から何者かに口を押さえられた。

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