第14話 凛の母



 あわてて、あとずさりしながら部屋を出た。

 そのとたん、背中が何かにぶつかる。かすかな男性用コロンの香りで、それが人間であり、凛だとわかる。

 ふりかえると、無表情な顔つきの凛が見おろしていた。勝手に部屋に入って怒っているのではないかと案じる。


「ご、ごめんなさい。ここで、あなたの声が聞こえて……ドアもあいてたから……」


 凛の目がじっと火乃香を見る。しばらく見つめたあと、火乃香の手をつかんで室内へ入っていく。やはり怒っているのだ。

 だが、ガラスの割れたスタンドを前にした凛は、深々とため息をついた。


「ここは死んだ母の部屋だよ。厳密に言えば、母が生きていたころの家はもうつぶして、このマンションに建てかえたわけだが、母の遺品はすべてとっておいて、ここに移した」

「お母さん、亡くなったんだ」

「僕が中学のときに」


 火乃香といっしょだ。あの悲しみを彼も味わってきたのだと思うと、急速に心の距離がちぢまる。


「わたしもよ」

「だからかな? 初めて会ったとき、前から知ってるような気がした。きっと、本能的に共感したんだ」


 凛は打ち沈んだ表情で、スタンドを手にとる。

 椅子にすわった女性と、五、六歳の子どもが写っている。あどけない笑顔の子どもは、幼いころの凛だろう。女の子のように愛くるしい。

 だが、女性の顔はわからなかった。ちょうどヒビ割れがその部分にあって隠されてしまっている。


「このヒビは、わたしがやったんじゃないの。ほんとよ。さわってもないのに、急にパリンと音がして」

「寒暖差のせいかな。今日はかなり寒いから」


 そうだろうか? 最上階のなかはエアコンがほどよくきいている。

 だが、たしかに窓から山なみが見えていた。一階ぶんすべてが一戸になっているから、場所によっては外壁に接してない部屋もあるだろう。そうした室内よりは、窓のある部屋のほうが外の空気との温度差は生じやすいかも……。


 でも、変な声も聞こえたし、やっぱり何かがおかしい。春翔の仕掛けだと納得したばかりだったのに、ここに来て、また説明のつかない事象に出会ってしまった。


 そういえば、引っ越しのあいさつで優子に会ったとき、棚の扉がひとりでにひらいた。あのときはなんとも思わなかったが、もしも、あれも怪奇現象なのだとしたら? そうなら、春翔に事前準備はできなかった。初対面の人の部屋のなかに、どうやって仕掛けておけるというのか?


 困惑する火乃香を見て、凛は嘆息した。


「まだ心配なようだね。では、今夜から、君の身に変事がないか、僕も泊まって観察しよう」

「えっ? わたしの部屋にですか?」

「こっちのほうがいい?」


 それはよけいに緊張しそうだ。要女もいてくれるなら問題はないだろう。何よりも人数の多いほうが気がまぎれそうだ。


「じゃあ、わたしの部屋でお願いします」

「それがいいね。さあ、昼食の用意ができてる。おいで」


 もとのリビングに戻ると、ワゴン三段に載ったフレンチが待っていた。家政婦がテーブルにならべる。六十歳はとっくにすぎているだろう家政婦だ。これが凛の話していた子どものころからいるという人だろう。


 料理はランチというには贅沢すぎ、以前、店で食べたものより美味しかった気がした。でも、心ここにあらずで、正直なところ、よくおぼえていない。


「では、夜になったら訪ねるよ」


 二十三階まで見送られて、火乃香は自室まで帰ってきた。でも、けっきょく一人ではいられなくて、すぐに優子のもとへ逃げだしたのだが。


 春翔に電話をかけようとしたものの、スマホの充電が切れていた。昨日は一日、優子といて、そのあと要女が部屋に泊まったし、ウッカリ忘れていた。

 でも、ちょうどよかったのかもしれない。今、春翔とつながっても、何を話していいかわからない。浮気をしてるのか、していないのか、さぐりを入れてみたいが、話せばきっと、ぎこちなさが出てしまう。

 とりあえず、スマホは自室に残して充電だけしておいた。


 夕方になって、要女が優子の部屋に晩ご飯に来るのはわかる。しかし、凛もやってきた。最上階で何不自由なく暮らしているのに、彼はもしかしたら、家族の愛情に飢えているのかもしれない。


「宮眉さんの手料理はほんとに美味しいよね。僕もごちそうになってかまわない?」

「もちろんですよ。じゃあ、今日は特別なお肉を出しちゃいましょうね。火乃香さん、ジンギスカンはお好き?」

「わたし、マトンは食べたことがなくて」

「大丈夫。うちのはいい業者さんから手に入れてるから、くさみもないし、初めての人でも食べられるわ」


 やはり、優子の料理は美味だった。それに、優しい。彼女に母の面影をかさねるのは、火乃香だけではないのだろう。

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