第13話 最上階



 このマンションは上階ほど一戸の平米が広く造られている。間取りは同じでも一室ずつが大きい。八階までは2DK。そこから二十三階までは三室、または四室というように。そこから上は一階層に数戸しかないようだ。


 ことに三十階は、そのすべてがオーナーのプライベートスペースになっていた。だだっ広い平屋のような空間に、豪華な部屋が何室も続いている。天井が高いので、ロフトのある場所では二階建てのようにも見える。

 全室に案内されたわけではないものの、通された部屋のふんいきだけで、ほかの部分の想像ができた。


 まるでミシュランガイドの三つ星高級ホテルだ。エレベーターをおりるとシックでゴージャスなエントランスホールがあり、廊下がすでに火乃香たちのリビングルームより広い。


「スゴイのね。どこを見ても素敵。萱野さん、大富豪なんですね」

「金持ちなのは祖父だ。凛でいいよ。君のことも火乃香さんって呼ぶから。じゃないと、君のハズバンドと区別がつかない」


 たしかに、名字でなら、二人とも姫原さんになってしまう。もしかしたら、それはファーストネームで呼びあうための方便だったのかもしれないが、くすぐったい気持ちになる。春翔と出会ったばかりのころの、ふわふわした甘い感情を思いだした。なくした愛を思って、胸がギュッと痛む。

 その心地をふりはらうように、火乃香は口をひらいた。


「とても広いんですね。でも、お掃除はどうするんですか? 料理はいつも下のレストランから?」

「家事は住みこみの家政婦がやってくれるよ。藤江は僕が子どものころからの使用人だから、好みもよく知ってるしね。和食が食べたいときは彼女に作らせてる」


 それもそうだろう。とても家族だけで手入れできる広さじゃない。床掃除に関しては、ちょこちょこお掃除ロボットも見かけた。


 それにしても、人影がまったく見られなかった。オーナーは祖父だというから、最低でもおじいさんは同居しているはずだ。だが、ほかに家族はいないのだろうか? 凛の両親は? 兄弟はいないのか?

 火乃香自身も核家族だが、これほど広大だと、どこかさみしい。孤独を感じる。それとも、火乃香の今の気分のせい?


「こっちだよ。さきにすわって待っててくれる? ちょっと、おじいさまにあいさつしてくるから。さっきのことも話しておかないといけないしね」


 ホールから近いリビングルームにつれていかれ、体が沈みそうにやわらかい革のソファーにすわる。


 凛は一人で行ってしまった。

 白を貴重にした部屋は明るいふんいきで、壁に飾られた絵もアール・ヌーヴォー調の薔薇だ。自宅にシャンデリアがある家を初めて見た。今の社宅だって、内装や照明器具などは備えつけだ。来たばかりのときは、かなりいい部屋だと思ったが、ここは別世界である。

 しばらく、そわそわした気持ちで待つ。


 すると、ざわざわと変な物音が聞こえた。ブーンと蜂の羽音のような。高くなったり低くなったりしながら、しだいに近づいてくる。

 ゾッとしたのは、ある瞬間、それがハッキリと言葉だとわかったからだ。大勢の人間がからみあうように何事かささやいている。それも、はかりしれない悪意を持って。


「凛さん!」


 凛の歩いていったほうへ走る。怖くて一人ではいられない。


 やっぱり、霊はいるのか? あれはみんな、春翔の仕組んだでっちあげではなかったのか?


「凛さん。凛……」


 よろめきながら、凛を探す。

 音はもうしない。

 ただの気のせい? だとしたら、幻聴だろうか? こう何度も同じことが起こるなんて。火乃香の精神に問題があるのかも……?


 今度は前方から声がする。すくみあがる火乃香だが、じきに凛の声だとわかった。つきあたりのドアがほんの少しあいている。きっと、あそこからだ。


 助けを求めて、火乃香はドアをひらいた。なかへ入ろうとして、ためらう。

 そこは無人の部屋だ。凛はいない。たしかに今、声が聞こえた気がしたのだが。


 なんだか調度品やカーテンの柄が古い。今の流行ではないようだ。少なくとも二十年くらい前のものではないだろうか。あわいピンクの花柄の壁紙に、昭和っぽいデザインの椅子やテーブル。なんとなく、ほかの場所とふんいきが違う。この部屋のぬしは、きっと女だろう。


 それにしても、この豪華絢爛ごうかけんらんなマンションの一室にはふさわしくない。貧乏じみてるわけではないものの、色あせ、古びて、くすんで見える。


 化粧台がある。そのかたわらに写真が飾られているのを見て、火乃香は近づいていった。部屋に入ったとたん、どこからか鉄サビのような匂いが、かすかにした。


(この匂い……もしかして、血じゃない?)


 見まわすと、ベッドの布団が妙によごれている。黒くかすれたは、血痕ではないだろうか?


(やだ。何、これ?)


 そのとき、とつぜん、ガラスが悲鳴をあげた。パシッと硬質な音が室内に響く。見ると、さっきの写真スタンドの表面にヒビが入っている。


 火乃香はあわてて部屋を出た。

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