第8話 夜中の人声



 女の声が聞こえる。

 だが、それは同じ室内からではないようだ。どこかぼんやりして、何を言っているのか聞きとれない。それでも、そこそこ声量はある。ごく近くで聞こえた気がしたのは、そのせいだろう。


(おとなり? 優子さん? でも、そんな感じじゃない。防音は完璧だって、入居前に説明されたし)


 それに、なんというか、もっと不気味なのだ。恨みのこもった、しゃがれて、いやらしい声。背筋が冷たい。

 火乃香はゾッとしてとびおきた。その声がなんと言っているのか、一瞬、聞きとれる。


「……あんたもわたしと同じめにあうんだよ」


 ドキリとした。

 春翔の浮気を指摘されてるような気がする。


(誰? なんなの? この声。そうか。要女? 誰かに電話でもかけてる?)


 だとしたら、火乃香の悪口を言ってるに違いない。いっきに要女の印象が悪くなる。だが、そっとベッドをおり、寝室とリビングルームのあいだの扉をあけてみると、要女はソファでぐっすり眠りこんでいた。酔っているから、かすかにいびきまでかいている。口をあけて、まぶたの下で両目が動き、熟睡中だ。とても電話なんてかけていられる状態じゃない。


(要女じゃなかった)


 じゃあ、あの声は誰のもの?


 たぶん、若い女の声だった。これまで他人からむけられたなかで、最大の悪意がこもっていた。


「要女。起きて。変な声がするの」


 かるく肩をゆすってみたが、なかなか起きてこない。そのあいだにも、細々と話し声は続く。


「だから……人間なんて……」

「早く殺してしまえ」

「みんな、死ねば同じ」


 男と女が話している。さっきの若い女とは違う。低く、乾いたしわがれ声。

 火乃香は要女を両手でゆりおこした。


「要女! 起きて! 早く。早く」


 ようやく、要女が起きてくる。


「……どうしたの? 女の霊でも出た?」


 要女は冗談のつもりだったのかもしれない。が、火乃香の顔を見て黙りこんだ。


「まさか……ほんとに?」

「声が……」


 そのとき、またあの声が聞こえた。いっそう押し殺したように低く、言葉の内容までは聞きとれない。


「ほら、あれ」

「えっ? 何?」

「しっ。耳をすまして」


 しばらく沈黙を守る。ゆうに三分。モゴモゴした口調ではあるが、火乃香の耳にはそのささやきがこびりついている。が、要女は首をふった。


「何も聞こえないよ?」

「男と女が話してる。すごく低くて聞こえにくいけど」

「うーん。わたしにはわかんないなぁ」


 そのうち、火乃香にも聞こえなくなった。でも、決して気のせいじゃなかった。やっぱり、何かがおかしい。


「もう聞こえないけど、さっきはしたの。最初、もっと若い感じの女の声が……」

「……」


 要女が何も言わないので、火乃香は自分の言葉が信じられていないのではないかと案じる。


「ほんとだよ? ほんとに聞こえたからね。信じられないかもしれないけど」


 考えこむ要女が急に顔をあげる。

「ねぇ、知りあいに霊媒師っていうのかな。そういう仕事してる人がいるんだけど、呼んでみる?」

「霊媒師……?」

「本人は心霊研究家って言ってる」


 霊媒師とかカルト宗教は、なんとなく信用できない。継母がそういうのを信じやすいたちだから、反面教師になっているのだ。でも、今日一日で起きたのは、常識では考えられないことばかりだった。自分ではどうにもできない。要女の知人なら、いくらか信頼できるかもしれない。


「どんな人?」

「まあ、大金持ちだよね。ここのオーナーの孫だから。萱野かやのりんって言って、いつも葬式帰りみたいなカッコした美青年」


 ドキリと胸が脈打つ。それは間違いなく、昼間にエレベーターのなかで出会った人だ。


「オーナーの孫?」

「このマンションのオーナー、最上階に住んでる」


 だから、青年は最上階にむかっていたのだ。もしかして、ここに住んでいるのだろうか? あの人になら頼んでみてもいい。


「じゃあ、ちょっと話を聞いてもらうくらいなら」

「そのほうがいいよ。明日さっそく頼んでみるね」


 今日は死ぬほど怖い思いをしたのに、そのおかげで気になる人に会える。嬉しいような悲しいような、複雑な気分……。

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