第5話 クローゼットのなかに



 叫び声をあげ、火乃香は廊下へとびだした。

 女はいた。は。だって、つみあげたダンボールの上に、頭が乗っかっていたのだ。女の首だけがあった。しかも、首だけで笑った——


 恐怖のあまり、火乃香は泣きだした。心臓がドキドキして、呼吸が乱れる。過呼吸の発作を起こしてしまいそう。


 すると、背後から声がした。


「姫原さん? どうしたの?」


 思わずビクリとして、ますますおびえる。あの女が追いかけてきたのかと思った。が、のぞきみると、立っていたのは宮眉夫人だ。上品なおもてに心配げな表情を浮かべている。


「どうしたの? ぐあいでも悪いの?」


 その顔を見たとたん、火乃香は感情の糸が切れた。老婦人に抱きついて泣きじゃくる。宮眉夫人は火乃香の背中をたたきながら、優しくなだめてくれた。


「うちに来て、紅茶でも飲む?」


 誘われるままについていき、香り高いアップルティーをごちそうになる。茶葉にリンゴの乾燥した皮が入っているので、甘くフルーティーな香りがするのだ。

 心地よいその香りとあたたかい紅茶で、ようやく落ちついた。


「何があったの? 姫原さん」


 聞かれて、ありのままに打ちあけた。ほかに頼れる人のいない土地だ。宮眉夫人の優しげな風貌もあって、すっかり心をゆるしていた。


 火乃香の話を、ときおりうなずきながら黙って聞いていた夫人は、こう言いだした。


「じゃあ、わたしも行ってあげるから、調べてみましょ。もしかしたら見間違いかもしれないし」


 あれは見間違いではなかった。土気色の腐りかけた皮膚や、どろりと濁った目、ニンマリ笑った口からのぞいた黄色い歯も、ハッキリとおぼえている。

 でも、一人で部屋に入る勇気はなかった。いっしょに行ってもらえるなら、それは助かる。


「わたしみたいなおばあちゃんじゃ頼りにならないわね。主人は今日、将棋友達のところへ行っていて留守なのよ。そうだわ。管理人さんにもついていってもらいましょ? それなら、あなたも安心よね?」


 宮眉が言うので、火乃香はうなずいた。生首の女に対して年齢は関係ないだろうが、人数が多いほうがより心強い。


 これほど大きなタワーマンションだ。管理人が置かれているのは当然と言えば当然だ。雑事と住人からの対応のためにオーナーが雇っているらしい。

 管理人室は一階にあった。以前、引っ越しのあいさつでたずねたときには誰も出てこなかった。ちょうど留守にしていたようだ。


「管理人さんって、どんな人ですか? わたし、まだ会ったことなくて」

「若い女性よ。あなたと同じくらい。明るくて、よくしゃべるわね」

「管理人が女の人って、めずらしいですね」

「でも、仕事はできるのよ。迫力があるから、男の人でもみんなハイハイって言うこと聞くしね。前橋さんっていうの。きっと、あなたとはお友達になれるわ」


 同年代の女の子。それは嬉しい。相談相手になってもらえるかもしれない。

 期待しながら、宮眉夫人と二人、エレベーターでおりていく。そういえば、さっき、ここで出会ったあの美青年は誰なんだろう? 彼の姿を思いうかべると、霊のことも一瞬忘れるほど、心がはずんだ。


(ヤダ。わたし、いくらものすごくキレイな人だったからって)


 ぼんやりしているうちに、エレベーターは一階についた。朝のラッシュアワーがすぎたから、エレベーターには火乃香たちしか乗っていなかった。ホールにも人影は少ない。


「管理人室はこっちよ。朝は外の掃除に出かけてるから、いないこともあるけど、そんなときは呼び出しブザーを押すといいのよ」


 宮眉に手をひかれて歩いていく。豪華なエントランスホール。エレベーターのよこに細い廊下が続き、その奥に管理人室があった。裏口のまん前だ。清掃や点検の業者が入るときなどに使われる出入口。外には自転車小屋も見える。車に乗らない火乃香の自転車もそこに置いてある。


「ごめんくださいまし。前橋さん。いらっしゃるかしら?」


 ガラス窓のなかへ宮眉が声をかける。事務室のようだ。三畳ほどのせまい部屋。が、奥にドアがあり、すぐに女が現れた。一瞬見えたドアの内側はふつうの居間か寝室。住みこみ管理人の部屋になっている。


「こんにちは。宮眉さん。どうかしましたか?」


 前橋要女まえばしかなめは目をひく美人だ。背が高く、茶髪をショートカットにしたボーイッシュな面差しと、グラマラスなボディのギャップが、同性の火乃香の目から見ても魅力的だった。


「前橋さん。こちらは新しくとなりに越してこられた姫原さんよ。新婚のご夫婦でね。まだこっちになれておられないのよ。仲よくしてあげてね」

「よろしく。要女でいいよ。あなたは?」

「火乃香です」

「あいさつに来たの?」


 答えたのは、宮眉だ。火乃香のかわりに事情を説明してくれる。だが、それを聞いて、要女は笑いだす。低い声でフフッとため息をもらすような、イヤな感じの笑いかたではない。


「そんなの、ほんとにあるの? まあ、あたしは信じないけど、もしも泥棒だったら大変だもんね。いっしょに確認しましょう」


 陽気なリアリストの要女がいることで、火乃香も勇気が出た。三人で二十三階まで戻り、室内へ入った。

 だが、収納スペースには女はいなかった。生きた女は、だ。

 マネキンの首が一つ、ダンボールの上に置かれていた……。

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