第4話 誰かの気配



 何かが、おかしい。

 ほんとに春翔は女を乗せていなかったのだろうか?

 無言電話のせいで疑心暗鬼になった火乃香が見間違えただけ?


 マンション前の通りは一直線だ。両側に並木はあるが、あのとき、春翔は視界から完全に消えてしまうまで停車しなかった。女が木のかげに隠れていたわけでもない。

 火乃香が地下駐車場で女を見てから、春翔の電話がかかってくるまでに五分とはかからなかった。たとえ、電話の前に女が降車したとしても、あの短時間で移動できる範囲内には隠れていなかったことになる。


 もしかして、ただの浮気相手ではないのかも?

 でも、だとしたら、なんだというのか?


 火乃香は理解しがたい事象に、背筋がゾッとした。

 急いで部屋に戻り、ハーブティーでも飲もう。ジャスミンティーの香りをかげば、いくらか気分も落ちつくはず。


 だが、鍵をあけて、なかへ入ったときだ。火乃香は室内に自分のものではない気配を感じた。気配というより、残り香。あるいは体温? ついさっきまで、そこに誰かがいたんじゃないかという痕跡だ。香水というほどでもない、でも科学的な芳香。化粧品かボディソープ、シャンプーのような、ほんのり甘い匂い……。


(わたしのでも、春翔さんのでもない)


 嗅覚は昔から敏感だ。過敏と言ったほうが正しい。花の自然な香りも好きだが、香水はとくに大好きで、日によって気分で香りを変えている。近ごろは千円くらいの安価なものでも、ブランド品に負けないよい香りがある。


 何かそういうものを使った女の残り香があった。とっさに、さっき春翔の車のなかにいた女だと思った。車内にいた女がどうやって、ここまで来たのか、鍵がかかっているのに部屋まで入ってこられるわけがない。でも、そんなことは二の次だ。とにかく、直感的にそう思った。


 イヤだ。ここにあの女がいる。怖くて部屋にいられない。火乃香は廊下にとびだし、そこでスマートフォンをとりだした。ふるえる手で春翔に電話をかける。が、今は出られませんという音声ガイドが冷たく返ってくるばかりだ。春翔は運転中なのだろう。


(どうしよう。家のなかに知らない女が……)


 警察を呼んだほうがいいだろうか? でも、もしも警察が来たとき? さっきの車内のように、消えてしまったら……?


(わたしの頭がどうかしてると思われるんじゃ?)


 気のせい。そう。気のせいだ。きっと。ちょっと神経過敏になってるだけ。

 もう一度、確認してみよう。たぶん、なんにもない。誰もいないし、変なものなんてない。春翔の浮気を疑ってたから、なんでもないことが怪しく思えただけだ。


 そう自分に言い聞かせて、ふたたび部屋に戻る。

 鍵はホテルのようにオートロックだ。専用のカードキーでひらく。引っ越すときに二枚渡された。一枚は春翔、もう一枚を火乃香が持っている。コピーはできないと初めに不動産屋から説明されている。誰かがこっそり合鍵を作ることはできない。


 ふつうに考えれば、人がいるはずはないのだ。春翔のキーは春翔が持って出ていったし、火乃香のキーはポケットに入っている。

 つまり、誰も侵入できない。気のせいだ。そうに決まっている。


 自分の部屋に入るのにビクビクしながら、火乃香は玄関扉をあけた。東京の自宅とはくらべものにならない広い玄関。一戸建てに遜色そんしょくない。片側は靴箱。反対側は壁と一体型の収納スペースだ。ドアノブがなく、端に手をかけるくぼみがある。なかは四、五十センチの奥行きの天井まで達する空間になっている。人間一人、充分に隠れていられる。


(このなかには、掃除機と、まだ封をあけてないダンボールがとりあえず入れてあるんだっけ。あと、洗剤とかのストック。けっこうゴチャゴチャしてるから、人間が入るとしたら、だいぶ変な体勢になるけど……)


 まさか、ほんとにあの女が?


 しばらく壁にしか見えないその場所を見つめる。息をひそめて耳をすますが、物音はしない。試しに壁に耳を押しあててみれば、女の息吹が聞こえるかもしれない。でも、それをするのも怖い。


 なんだか、苦手な虫が家に出てきたときみたいだ。怖い。怖いけど、ほっとくわけにもいかない。確認してみなくては落ちつけなかった。

 春翔がいてくれたら、こんな思いをしなくてすんだのに。


 あけてみるしかない。でももしも、そこにほんとに女がいたら、自分は叫びだしてしまうだろう。


(大丈夫。大丈夫。気のせい。気のせい)


 思いきって、くぼみに手をかけた。ゆっくりひらくと、目をとじて、あとずさる。すきまから、いつもと違う匂いがした。でも、化粧品のそれではない。肉の腐ったような不快な……。


(変だな。ダンボールに食べ物でも入れてたっけ?)


 冷蔵庫のなかみは全部すててきたはずなのに。

 今度はそっちが気になった。生ものがあるなら、すてておかないと。

 あわてて、扉を大きくひらく。その瞬間、火乃香はなかの女と目があった。腐りかけた唇がひきつって、女はニヤリと笑った。

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