第3話 女の影



 マンションには地下駐車場があり、東京から持ってきた自家用車が停めてあった。

 火乃香はそこまで見送ると言ったのに、春翔は時間がないからと断った。

 しかたなく、玄関さきで別れ、彼が去ったあとだ。靴箱の上に置かれた茶封筒に気づいた。なかを見なくても、春翔の忘れものだとわかる。きっと、仕事で必要な書類が入っているのだ。


(完璧な旦那さまにも、意外とウッカリなとこがあるのね)


 今ならすぐ追いつく——そう思って、封筒と家の鍵をつかみ、外に出る。廊下の端に春翔の姿が見えていた。


「春翔さん。待って」


 呼びかけたものの、聞こえなかったのか、春翔は歩いていってしまった。長い廊下のむこうで、エレベーターに乗りこむのが見える。

 急がないと、あいさつまわりに必須の書類なら大変だ。


 火乃香はエレベーターの前まで走っていった。が、タッチの差で扉がしまる。下降ボタンを押したけど、もうドアはひらかない。


 しょうがなく、もう一度あがってくるまで待った。

 そのあいだ数分だ。朝なので、エレベーターを使用する人が多いらしい。なかなか帰ってきてくれない。


 イライラしながら待っていると、ようやく戻ってきた。あわてていたので、つい乗ってしまったが、よく見たら上にむかうようだ。なかに初めて見る人が立っていた。


 会釈して出ていこうとした火乃香は、その人と目があって、思わず、あぜんとしてしまう。


 マスクで顔の半分は隠れているものの、ビックリするぐらい綺麗な青年だ。年齢はたぶん、火乃香と同じか少し上くらい。あまりにも端麗な顔立ちなので、最初、女かと思った。長めの前髪。まつげが濃い。黒い瞳がとても印象的で、肌のなめらかさは蝋石ろうせきのようだ。仕立てのいいスーツ。トレンチコートまで、全身まとっているものが黒い。

 春翔にくらべれば、だいぶ女性的だが、それだからこそ神秘的でもあった。


(こんな綺麗な人、見たことない)


 おどろいているうちにドアがしまり、エレベーターは上昇した。三十階に来て止まる。男はそこでおりていった。最上階の住人だ。富裕層のマンションのなかでも、とくにお金持ち。


 ぼんやりしていると、さきに火乃香が押していたボタンに呼ばれて、エレベーターは降下した。それで気をとりなおし、あらためて地下階へおりていく。


 三十階建てのマンションは全部で三百戸くらいだろうか? 駐車場もかなり広い立体駐車場になっていた。地下一階と二階がそれだ。駐車場は有料で、全員が借りているわけではないらしい。それでも、百台の車がならんでいると、なかなか壮観だ。方向オンチぎみの火乃香は、いつもここで迷う。


 だが、今回は迷わなかった。というよりも、エレベーターのドアがあいたとたん、目の前の通路を春翔の運転するマイカーが通りすぎていったのだ。

 声をかけようとした火乃香はこわばった。後部座席に女が乗っている。髪の長い、顔色の真っ白な女だ。うつむいているので、長い髪がジャマして顔はよく見えない。


 やっぱり、あの人、浮気してる——


 そう思い、火乃香は凍りついた。出張と言いながら、ほんとは愛人と小旅行なのだ。わざわざ東京から呼びよせたのか、それとも、もともとこっちの女なのか……。


 憎いというより、悲しかった。まだ新婚三ヶ月で幸せいっぱいだと思ってたのに、この幸福を感じていたのは自分だけだったのだと。

 春翔の心が遠く離れていく。手の届かないところへ行ってしまう。


 が、その直後だ。

 ポケットのなかで、にぎやかな音楽が鳴る。スマートフォンの呼出し音だ。こんなときに誰だろうと放置したものの、そうとうしつこく鳴っていた。地下のコンクリートの壁によく響く。しょうがないのでポケットから出してみると、それは春翔からだった。


 なんで、今?

 愛人と二人で秘密のランデブーではないのだろうか?

 こんなときに電話をかけてくるなんて、どうかしてる。第一、運転ちゅうだ。


 ためらいがちに出た。


「あっ、火乃香。忙しかった?」

「そうじゃないけど……洗いものしてて」

「じつはさ。玄関に大事な書類忘れたみたいなんだ。マンション前にいるから、届けてくれないかな?」

「えっ? うん……」


 なんだかおかしい。

 ほんとにいいのだろうか? 女がいっしょにいるところを火乃香に見られると考えなかったのか?


「今?」

「あれ? ダメだった? なら、ちょっとめんどうだけど、自分でとりに帰るよ」

「いいよ。わたしが行く」


 もしかしたら、女を一時的に車からおろして、近くで合流するつもりだろうか?


 火乃香は急いで一階まで戻り、エントランスホールを走った。時間がたつほど、春翔にごまかしのチャンスをあたえてしまう。

 さっきの今だ。女がどこかへ避難するとしたら、マンション一階に入ってるコンビニくらいだ。マンションの前は片側二車線の広い通りなので、建物のなかでないと姿が隠せない。


 ということは、春翔が車からおりてエントランス前で待っている。そして、車内に残った女は体をふせて、火乃香に見られないようにしているはず……。


 ところが、エントランスホールを出ると、赤い車が路肩に停車して、そこから春翔が手をふっていた。

 火乃香は小走りでかけた。

 笑いながら春翔が窓をおろす。なかをのぞいてみたものの、女の姿はない。

 では、コンビニ? ガラスウィンドウの店内には、それらしい姿は見えないのだが。


「ああ、これこれ。助かったよ。サンキュ」

「う、うん。あの……」

「じゃ、約束の時間があるから、もう行くよ」

「行ってらっしゃい……」


 きっと、少し走ったところで車を停める。女が乗りこむに決まってる。


 だが、あげかけたパワーウィンドウをふたたびおろして、春翔は手招きしてきた。火乃香の頭をひきよせ、チュッと唇をあわせる。浮気相手がいる前でしそうにない行為だ。


「火乃香。顔色悪いみたいだけど、大丈夫?」

「うん」

「なるべく早めに帰るから」


 今度こそ、春翔の車は車道を走りだした。そのまま、まっすぐ、すべるように去っていった。

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