第2話 無言電話



 きちんとしまっていた戸棚がとつぜん、ひらいた。誰もさわっていないし、風も吹きこんでなかった。


 ちょうど火乃香の真正面だったから、その動きをなにげなく目で追ったものの、とくに何かを感じたわけではなかった。戸棚のしまりがゆるかったのかな、そう考えた。


 最初はそのていど。

 むしろ、このころ悩まされたのは無言電話だ。結婚前、火乃香の自宅に固定電話は置いてなかった。火乃香は長いこと一人暮らしだった。自分のスマートフォンを持っていればことたりたからだ。けれど、春翔が仕事とプライベートで電話番号をわけたがったので、それからは固定電話を設置した。


 引越しさきのマンションにも、とうぜん置いたわけだが、これがよく鳴る。一時間に一回。へたすると、五分おきに。引越したばかりで電気やガス会社、宅配便などの手続きで必須の連絡も多かったから、出ないわけにもいかず、とても困った。しつこく鳴るので出ると、そのとたんに切れる。あるいは変なため息が受話器のむこうから聞こえる。一度だけ、女の声でこう言われた。


「早く出ていけ」


 低い押し殺した声で、もとの地声がわからないように用心したのではないかと思う。


 だから、火乃香は春翔の浮気を疑った。無言電話は相手の女からの嫌がらせではないかと。証拠に、春翔が在室のときには、ほとんどかかってこないのだ。


 春翔はとてもハンサムだ。背が高く、高校までサッカーをしていたので、今でもジョギングや筋トレなど運動が大好き。おかげでスタイルがよく、笑顔がとても爽やか。火乃香だって、仕事の依頼でちょくせつ会ったとき、その笑顔にクラクラした。その上、優しくて、料理も上手。


 ウワサはあったのだ。

 それほど素敵なイケメンなのだから、女の人にはめっぽうモテると。

 本人にその気がなくても、熱をあげる同僚やクライアントも多いと、事務のお局さんがこっそり教えてくれた。そういう彼女自身、ほんとは春翔が気になっているのではないかと思う。ただ、まったく相手にもされないから、悔しまぎれに悪いウワサを吹聴しているのではないか。


 春翔から食事に誘われたとき、てっきり仕事上の接待だと、火乃香は考えた。まさか、女として春翔ほど魅力的な男性に目をとめられるなんて思いもよらなかったのだ。今でも、春翔が自分を選んでくれたことが不思議でならない。


 極度の人見知りで、初対面ではまともに話せない。ひっこみじあんな火乃香。体も丈夫なほうではないし、家事が得意でもない。どちらかと言えば苦手。容姿だけは昔から可愛いと言われたが、それもとびっきりの美人というわけではなかった。

 大学を卒業したあと、一度も会社勤めをせず、イラストレーターで細々暮らしてきたため、知識もかたよっていて、会話が楽しいわけでもない。

 正直、春翔は自分のどこを気に入ってくれたのかと不安になる。


 プロポーズされたときに聞いてみた。わたしのどこがいいんですかと。あまりにも意外だったから。


「守ってあげたくなるところ?」


 そう言われて、いちおう納得はしたのだが、やはり、愛されている自信がない。連日の無言電話は、火乃香の疑念をかきたてた。


 だいたい、春翔ほどモテる人だ。彼女はいなかったのだろうか? まさか、火乃香のせいで別れたとか? それとも、過去に忘れられない大切な人がいて、その女以外は誰でも大差ない……なんてことも?


 火乃香が疑心暗鬼におちいっているというのに、春翔はこのタイミングで出張に行くと言いだした。


「出張? 今なの? なんで? 引っ越してきて、まだ一週間もたたないよ?」

「だからだよ。地元の取引さきへ、あいさつまわりに行くんだ。けっこう山のなかの会社もあってさ。長くなりそう」

「長くって……どのくらい?」

「何度かにわけて行くから、最初は三、四日かな」

「そんなに?」

「ごめん」


 火乃香は必死にひきとめたが、こればっかりは仕事だからと聞いてもらえなかった。まあ、しかたないと頭ではわかっていたのだが……。


「じゃあ、火乃香。行ってくるよ。おれが留守のあいだは、となりの宮眉さんを頼ればいい。それに、一階に管理人室があったから、誰かいるんじゃないかな」


 翌朝。むくれる火乃香を残し、春翔は出ていった。

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