第一章

第1話 夫の転勤



 結婚したばかりの夫が地方都市に転勤になると聞いたとき、火乃香は迷った。


「単身赴任なの?」

「いや、家族もいっしょに行ける。現地に社宅を用意してもらえるから」

「いつから?」

「一週間後」

「そんなの、すぐじゃない!」

「だから、火乃香も行くよね?」

「そんなの約束が違う。結婚しても仕事は続けていいって言ったじゃない」

「だから、転勤先でも仕事すればいいよ」

「わたしは今のクライアントがいいんだよ? 仲介さきも変わるだろうし」

「じゃあ、火乃香は残る? そしたら、最低三年は会えないよ?」

「三年?」

「長ければ、五年……いや、もっと?」


 そんなふうに言われたら、しぶしぶながら承知するしかなかった。なんと言っても好きな人だし、新婚なのだ。


 つきあってから、わずか半年での電撃結婚だった。火乃香は二十五、春翔はるとは五つ年上の三十歳。大手広告代理店で勤める春翔とは、仕事上での出会いだった。


 火乃香はイラストレーターだ。と言っても、まったくの無名。依頼が来るのは、せいぜい地元のスーパーや中小企業だ。透明水彩絵の具を使った花や風景画は無難すぎて個性がない。選り好みしなければ、それなりに仕事はあるものの、似たようなものを描ける人はいくらでもいる。春翔の会社からの受注を頼みにしていたため、引越しを望まなかったのだ。


「仕事は家でできるだろ? 依頼はこれまでどおり、会社から電話かメールでしてもらえばいいよ」

「そうだけど……」

「頼むよ。おれ、支社長になるんだぜ? 栄転だよ。火乃香も喜んでくれると思ったのに」


 けっきょく春翔に押しきられる形で、引っ越してきた新居。ある地方の県庁所在地と聞いていたので、親の代から東京暮らしの火乃香は、どんな田舎だろうと心配していた。けれど、用意された社宅を見て、すっかり気持ちが変わった。


「今風のタワーマンションだよ。絶対、気に入るから」


 春翔が言っていたとおりだ。タワーマンションというにはちょっと階層が少ない気はしたが、三十階建てのマンションは、モダンでとても美しかった。ガラスの壁面に夕焼けの赤い空が映りこみ、周囲の緑ゆたかな景色とあいまって、幻想的ですらあった。


「わぁっ、スゴイ。キレイ」

「なかも広いよ」


 新築なので、外観だけでなく、内部もピカピカ。セキリュティは万全だ。エントランスホールにはアーティスティックなオブジェが置かれ、高級ホテルのようだ。


 用意された社宅は二十三階。3LDKだが、そのリビングが二十畳もある。ベランダは春翔の趣味の鉢植えがならんでいて、ちょっとしたオアシスだ。

 かと言って周囲は街なので、田舎すぎはしない。公共機関もいきとどいている。歩いて行ける範囲に必要な商業施設はすべてそろっていた。


「ねぇ、東京のマンションより素敵じゃない」

「だろぉ? だから、絶対、気に入るって」

「よくこんなところ、社宅にしてくれたよね。まさか、このマンション全室?」

「さすがに、それはない。本社の社長の地元らしくて、抽選で当選した部屋が社宅にされたって話だよ」

「じゃあ、ほかにも同じ職場の人いる?」

「今はいない。こっちの人は、みんな、自宅持ちだからさ」

「でも、きっと、ここよりいいとこには住んでないよね。なんか特権階級って感じ」


 最初は幸せな予感しかしなかった。この場所で一週間もしないうちに、身の毛のよだつ体験にふるえることになるとは、むろん、思いもしていなかった。


 最初に妙な違和感をおぼえたのは、なんだったろうか?

 となりの夫婦にあいさつに行ったとき?


 火乃香たちの2307室は角部屋だ。もともと防音のきいた造りでもあるし、隣室の音はまったく聞こえない。なので、あいさつに行くまで、そこに老夫婦が住んでいることすら知らなかった。宮眉みやびという変わった名前の夫婦だ。二人ともキレイな白髪で、いかにも裕福で上品なたたずまい。


「初めまして。となりに引っ越してきた姫原ひめばらです。地元はこっちなんですが、このまわりの土地は何もわからないので、仲よくしてくださると嬉しいです。よろしくお願いします」


 春翔の言葉を聞きながら、夫の姓もかなり珍しいと、火乃香は思う。山奥にある実家はなかなかの旧家で、お姫さまが狐にさらわれたとか、そういう伝承があるらしい。姫原姓はそこから来ているようだ。


「あらあら、おとなりさんなのね。こちらこそ、年寄りばかりで心細いのよ。何かあったら頼っていいかしら?」


 昭和マダム風の口調が似合うおばあちゃんだ。火乃香は可愛がってくれた父方の祖母を思いだした。


「あがってくださらない? お茶でも飲みましょうよ」


 誘われて、ついごちそうになったのは、その優しげな人柄のせい。

 近所のスーパーはどこが安いとか、何曜日がお買い得とか、あたりさわりない話で盛りあがっていたときだ。


 カタンと戸棚の扉があいた。ただ、それだけ……。

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