第55話 聖女は、ナードな人見知りの面倒くさい女

 ピサンリ王国辺境の地にある聖地マーロナポリス。

 周囲を荒野と山岳に囲まれた地政学的にも発展しえなかった不毛な大地が、いかようにして聖教会の聖地となり得たのかは、諸説あるという。

 そんなマーロナポリスは大理石を切り出し、それを建材にした白亜の町並みが特徴的であった。

 周囲は生産力の殆どない不毛の大地にも関わらず、なぜ町があるのか。

 それは町を行き交う人々の活動の結果だった。


 聖地マーロナポリスは信者達が日々巡礼に訪れ、その旅を支える冒険者や商人達が徐々に入植していき、気がつけば聖地は町へと育っていったという。

 相変わらずマーロナポリスでは、少ない生産力を補う為に外貨の取得が必須であったが、町は小さいながら人々で賑わっていた。


 そんなマーロナポリスで最も人々が訪れるのは、小高い丘の上に建立された大聖堂であろう。

 日々長蛇の列が出来る巡礼の道、今や国教にもなったおかげもあり、世界中から訪れるようになった。


 大聖堂の中に入って先ず目立つのは張り巡らされたステンドグラスだろう。

 歴代の偉人達の功績を描いたステンドグラスは陽光を浴びると、美しく輝いた。

 窓も少なく、光を取り入れる為のステンドグラスはあっても、中は薄暗く、その為、参拝堂は燭台がいたる所にかけられていた。

 大聖堂はその他、信者達が暮らす住居、炊出しも行う大食堂、また変わった所には大図書館も併設されていた。


 「……賢者アリストテレスはこの世を善と悪、偶然と奇跡の上に成り立ち、混沌と秩序は渾然一体こんぜんいったいとなると仰った……けれど、その主観が身に付くには六十年掛かったという」


 薄暗い大図書館に、燭台を脇に置いて、なにやらひっそりと呟く司祭がいる。

 その司祭は美しいプラチナブロンドの長髪を司祭のブーケで覆い、白地に青い十字の入った修道服を身に纏った、どこか妖艶な雰囲気を漂わせる魅惑的な女性だった。

 注目するべきは、その視線だった。

 彼女は目線を動かさず、ただ本の表面に指を這わせて内容を読んでいた。


 見ていない? 然り、彼女は本を見ていないのだ。

 彼女の瞳は光を映さない、完全にではないが、過去にある事故によって視力を失ってしまったのだ。

 だが彼女は盲目のハンデをまるで感じない動きで、ページを捲る。

 その読む速度は、下手な学者よりも速く、パラパラとページが捲られていた。


 彼女は神の声を聞いたある時から、目の前に新たな世界を得たのだ。

 今や彼女は色のある世界を知らない。だが『ささやき』が教えてくれるのだ。

 指を本に這わせれば、僅かな印刷の凸凹を正確に読み取り、彼女は正確に筆致を読み解き、周囲から聞こえる音は、常人を遥かに超える感度で些細な音も聞き逃さなかった。


 彼女の名はシフ・エキザカム、そう彼女こそが今回の聖星祭で聖アンタレスの行程を演じる役目を任された稀代の聖女であった。


 しかし……彼女はそれに関してはクスリと笑う。

 神の声を聞いた、それは少しだけ語弊があった。

 正確には『囁き』だ、その正体が神様なのか己の声なのかは判然としないが、少なくともそんな大層なことではない、少なくともシフにとっては。


 カツン、カツン。


 鋭敏な彼女の耳は、その足音を聞き逃さなかった。

 有に並大抵のエルフの比ではない絶対聴感は、あらゆる音を聞き分ける。

 そう、彼女は音を頼りに、足音が放つ音量から、ボンヤリとシルエットを形作った。

 シフはクスリと妖艶に微笑むと、本をパタリと優しく畳み、それを本棚に収めた。


 ガチャリ、静かな図書室に新鮮な風が吹き込んだ。

 彼女は全てが暗黒の視界の中でありながら、世界を正確に描写して認識していたのだ。


 世界は音の塊である。人間の放つ呼吸音、筋肉の軋み、心拍音。風が吹けば、障害物に当たる度に、風は向きを変え、それが彼女に世界の形を教えてくれた。


 「もう時間ですか?」


 彼女は目を瞑ったまま、ゆったりと入り口に向かった。

 彼女の目の前には眼鏡を掛けた侍女が立っていた。

 侍女はシフを確認すると、こほんと相槌を打つ。


 「はい、護衛の方が到着しましたよ、聖女様」

 「まぁ、どんな方なのかしら……一人でも問題ないのだけれど」


 聖女は冗談が好きだ。周りからはお固く思われているが、実際の彼女はどこか戯けている。

 最も公私は弁えているつもりだから、シフがこんな素顔を見せるのも、ずっと彼女のお世話役を買って出たこの侍女位なのだが。


 「会ったらビックリすると思いますよ」

 「まあまあ、それは楽しみです、ね」


 シフは手を合わせると、ゆらりゆらりと歩き出した。

 侍女は図書室には入ってこない、なにやら目くじらを立てて、口元を抑えている。


 「どうしました?」

 「聖女様、大図書館を私物化するなら、せめて埃掃除位……」


 侍女がそう苦言を呈すると、シフは「あぁ」と合点がいった。

 盲目の世界とはつまらないものだが、彼女は昔から本が好きで、少しでも時間があれば図書館に篭る程の本の虫だった。

 あまりに環境に慣れていた性か、年季の籠った埃が積もっていたにも関わらず、無頓着で美しい髪も埃を被っている有様だった。


 シフは舌を出すと、首を傾げた。


 「ごめんなさい」


 と、子供っぽく謝罪したのだ。

 侍女は深い溜息を吐くと、シフが図書館から出てきた所で、ハンカチでシフが纏う埃を振り払った。

 絶対に他人には見せられない埃まみれの聖女にはもう見慣れたものだ。

 だからといって、公に埃を被った聖女など絶対に、見せられないのだ。

 侍女とは普段の身の回りの世話も欠かせない、スタイリストでもあるのだ。


 「少しは私の苦労も考えて欲しいですね」

 「フフフ、本当にありがとう、ございます」


 シフは本当に侍女には感謝していた。

 何せ如何に聖女と謳われても、この女の本質は根っからのナードであり、私生活は壊滅したどうしようもない喪女もじょなのだから。

 侍女はシフのスタイルを整えると、シフは満足げにゆらゆらと歩き出した。

 意識している訳ではないが、腰を振りながら歩く姿は今時遊女でもしない妖艶さであった。

 昔から体に馴染んだ歩法のため、聖女の神秘さのように周囲には思われていたが、なんてことはないただ修正できるが、する気がないだけのこと。


 「護衛の方は貴賓室でお待ちです」

 「では急ぎましょう」


 侍女はシフの僅か後ろをついて行く。

 シフは目を閉じたまま迷うことなく歩く。

 螺旋状の地下階段を登って行くと、修道女達が忙しく走り回る大広間に出た。

 修道女の一人が聖女に気付くと、後は瞬く間にシフの周りには修道女達が取り囲んでしまう。


 「あ、聖女様、いよいよ出発ですね!」

 「聖女様! お役目応援してます!」

 「あ、あの聖女様、しばらく会えないから寂しいですけど、その」


 「フフ、皆さん、今はお客様を待たせてますの」

 「はいはい、通して通して!」


 シフは普段から気さくに返事はしてきたのだろう。

 あまりコミュニケーションは得意ではなかったが、彼女なりに努力の成果だった。

 彼女の周りは自ずと人が集まる。皆手を合わせ、奇跡の聖女を崇めるのだ。

 シフは困ってしまったが、中々強くは言えず、いつもその役割は侍女だった。


 侍女はシフの手を引っ張ると、シフは人集りを抜け出す。

 シフはこんな日々が少しだけ楽しかったからか、クスリと微笑む。

 やがて、二人は貴賓室の前に辿り着く。

 シフは絶対聴感でその中にいる気配を感じ取っていた。

 中に二人いる。一人は知っていた。

 大司教様だ、もう一人は知らないシルエットだった。


 「エルフ……?」


 シフは小首を傾げ呟く、侍女は貴賓室の扉を叩いた。


 「聖女シフ様をお連れしました!」


 侍女が扉を開くと、この人見知りは深呼吸をした。

 その表情は凍りつき、緊張で動悸を早くしていたのだ。

 シフは意を決すると、静かに歩く。


 「お待たせしました護衛様」


 彼女は精一杯、修道服の裾を広げ、挨拶した。

 彼女の目の前にいたのは、目つきの少し悪いエルフの冒険者だった。

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