第44話 悪魔少女蒼は、涙を知らない

 私が主様のお世話をするようになって一週間が過ぎました。

 もう一人の主様は今もどこかで私の姿を監視しているのでしょうか。

 ただ、怠惰たいだにも思える程ゆっくりとした時の流れの中、私は主様や二人の標的と交流を深めていったのです。

 主様は勿論、ガーネット様コールン様も確かに信頼を深めていったでしょう。


 だけど私は絶対の好機である筈なのに、標的の暗殺を実行できないでいました。

 それは当然主様の寵愛を失うことを恐れたからです。

 結局、私は悪魔に過ぎないのではないか。

 自分本位に、結局は主様を失うのが怖いのではないか。


 だけど遂に復讐の時は来たのかも知れない。


 それは、買い物の帰りの事だった――。



 「サファイア」


 いつもの商店街、今日も美味しい物を主様に食べて欲しくて、しっかり吟味して選んだ商品を買い物袋に詰めて帰る最中、あの襤褸ボロを被った銀髪紅眼の少女が路地から呼んでいた。

 私は無表情に振り返ります。姉ルビーもまた無機質な表情で私だけを見ていました。


 「ルビーですか」


 路地裏にいるルビーの下に駆け寄ると、ルビーは奥へと招いた。

 私は今緊張に表情を固く――元々そんな顔ですが――する。恐ろしいのか、自分の楽しかった時間はもう終わりなのですか?


 「サファイア? どうしましたサファイア?」

 「……ッ、なんでもございません。直ぐ行きます」


 私は覚悟を決めると、路地裏へ向かいます。

 ピチャピチャと、水溜りを踏むと、段々不安になる。


 「ここです。サファイア」

 「……あの方は?」

 「今はいません。しかし命令はうけたまわっています」


 命令、私は胸がドクンと波打ったのを感じました。

 あの方の憎悪、それが全て壊すのでしょうか。


 「サファイア、主様はそろそろ収穫をお望みです」

 「………」

 「サファイア? 返事は?」


 やっぱりか……私は一歩後ろへ退いた。

 ルビーは私を訝しむ、私は震えを抑えられなかった。


 「ル、ルビー……わ、私、は……」

 「サファイア、しっかりしなさい。どうしたというの?」


 ルビーには分からないだろう。

 あのという感情が、私をここまで惑わすなんて思いませんでした。

 もはや二人の主様の存在が私の中で同じ位に大きくなっていたのです。

 泣きたい、けれど泣けない。もう駄目だ、私もう無理よ。


 「ルビーお願いがあり、ます」

 「サファイア? お願いとは?」

 「主様の復讐を、止めたい……の、です」


 私の声はからからに乾いていた。

 自分が何を言っているのか、そんな耄碌もうろくした世迷い言を聞いたルビーはどんな顔をしていたか?


 「本気で言っているのですか?」


 ルビーは胡乱うろんげに私を睨んだ。

 やはり……このままでは。


 「サファイア、やはりこの任務は貴方には不適任だったのでしょう。もう全てを忘れておやすみなさい」


 ルビーはそう言うと首を横に振った。

 ルビーの視線は優しげだ、だけどそれは残酷だった。


 「暗殺は私が実行するわ」

 「ま、待ってください、それは……それだけ、は……ッ」

 「何故止めるのですか? 私達は主様の奉仕こそ生きる意味では?」


 そうです、ルビーの言うとおりなのです。

 だからこそ矛盾した、人間の主様を愛してしまうなんて誤算も良いところでした。

 私は今更グラル様を失うのがこんなに恐ろしいとは思わなかった。

 ルビーはなんの感情もなく、任務を実行出来るのでしょうか?


 所詮私は欠陥品……でしょう、か。


 「見つけたん、です……」


 私は懇願するように、その場にうずくまった。

 見上げると、視線は焦点が合わず、ルビーが三人に分身していた。

 思考が上手く纏まらない。ただ、思いが言葉になっていた。


 「私、大切な物を見つけたん、です」

 「大切な物……主様の命令以上の?」

 「はい……その方は私を愛してくれました。私に喜びを、くださいました……その方と一緒に住む方々も、とても良い人達で、私はもう失いたくない……」


 ルビーはあくまでも冷静で、鉄面皮の表情にはなんの感情も湧いていなかった。

 ただ、それは怒気もなければ、哀しみでもないということです。


 「理解出来ないわ。主様は一人の筈」

 「お願いルビー、見逃して」

 「………サファイア。貴方は裏切るの?」


 最終通告かも知れない。

 私は一瞬ゾッと顔を青くしただろうか、これを肯定すれば私はルビーと決別を意味する。


 「私は……ルビーを、裏切りたくはない……でも」


 「ククク……面白いことになっているな?」


 どこからか酷薄な男の声が路地裏に響いた。

 頭上だ、その男は屋根から飛び降りると、私達の間に降り立った。


 その姿は真紅の長髪を揺らす褐色肌の人間だった。

 金色の瞳は爛々らんらんと輝き、その視線はそれだけであまりにも恐ろしい。


 「へリオライト様」


 ルビーは直ぐにその場に蹲り、頭を垂れた。

 一瞬遅れて私も同様に頭を垂れる。

 私達の主様、それはこの魔王へリオライト様だった。

 元々は炎の精霊のような存在だったが、あの日……宣戦布告に街を襲撃した時、へリオライト様はコールン様とガーネット様に完膚無きまでに撃退されたのだ。

 そのダメージは未だ引きずっており、へリオライト様は今は人間に憑依して、潜伏を余儀なくされているのだ。


 「ククク……サファイア、我を裏切るのか? お前如きが?」

 「あ……う」

 「主様、サファイアは混乱しているのです。任務は私が引き継ぎます」


 ルビーは毅然きぜんと主様に提案した。

 だが主様は横からの声を許さなかった。

 主様はルビーを不機嫌に足蹴にすると、ルビーは無抵抗に倒れる。

 そのまま主様はルビーの顔の側に、足を振り下ろした。


 「誰が発言を許可した?」

 「あ、う……もうし、わけ、ございません」


 ああ、どうしてこんなに違うの?

 私はルビーを憐憫れんびんの思いで見た。

 ルビーは私よりも優秀だ、だからこそ感情さえもコントロールしてみせる。

 だけど魔王様がなんの脈絡もなく、ルビーを足蹴にしたのは唖然であった。

 グラル様とここまで違う……同じ主様でさえ。


 「でだ? サファイアは暗殺出来ないと?」

 「………ッ」


 言えるわけがない、言えば私はもっと酷い目に会う。

 ああ、やっぱり欠陥品なんだ、主様を裏切ろうとしているんですから。


 「ククク……どうやら本当にほだされたのか」


 魔王様は何が面白のか、低い声で笑った。

 ほだされた、のでしょうね……もう、それだけグラル様は大きな存在でしたもの。


 「まあいい、出来損ないに求めていたのは所詮油断を誘う程度だ、後のことはルビーに任せれば十分だろう」

 「お、お待ち下さい! お願いします、それだけは――ッ!」


 その瞬間、私は魔王様に蹴り飛ばされる。

 私はまともに受けて、水溜りの上に倒れてしまった。

 魔王様は冷酷に、そして失望したように私を見下した。


 「生意気を言う、奉仕種族風情が」

 「お、お願いします……お願いします……お願いします……」


 私はただひたすら復讐の打ち切りを懇願した。

 もはや必死に、それを願うしかなく、その心は絶望でしかない。


 「ふむ……。ククク、なら一つお前にチャンスをやろう」


 チャンス……? 私は身体が動かない中、魔王様の非情な声だけを聞き取った。


 「あの剣士かエルフのどちらかを殺せ、そうすればお前はもう自由だ、新しい主でもなんでも手に入れろ、どうだ?」

 「………!」


 それは非情の選択だった。

 私がこの手を赤く汚せば、私は開放されるという。

 だけどそれで本当に私は開放されるのか……、私はグラル様の顔が浮かんだ。


 主様、私、どうすれば………。

 その時、私は一筋の涙が零れていた。

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