点滅してる青信号でも止まる

体力が無いので、すぐ立ち止まりたくなる。


 そのくせ歩くのは好きなので、「まあ行けるだろ」とばかり長距離を歩こうとしてすぐ後悔する、ということを繰り返してしまう。いつまで経っても己の体力を見誤る。



 そんな私のオアシスが赤信号だ。訳もなく路上で立ち止まっては通行人の邪魔になるし、不審だ。赤信号なら合法的に堂々と立ち止まれる。

 合法的にも何も赤信号で止まらなかったら違法だが、全く車の来る気配のない、幅も狭く見通しのいい横断歩道で赤信号を前にじっと止まってると、なんとなく不思議な気分になってくる。


 重ねて言うが、赤信号で止まる、と言うのは法で定められた決まりであり、それが正しい行いなのは大前提だ。

 その上で、車がいない絶対安全な車道で律儀に信号を守ってる人に対して「別に行っちゃっていいだろ、クソ真面目だな」と思ってしまう人も結構いるのではないか。


 私の場合、他人には思わないが、なぜか自分自身には思ってしまう。

 私は「立ち止まる」という行為そのものが好きなのでそんな風に思う必要はないし、そもそも真面目なことは悪い事ではないから別にいいのだが、もう1人の自分が「お前、真面目だな」と笑うのをやめてくれない。真面目である事を笑う価値観は良くない。


 いや、私自身に笑われているのは本当に『真面目さ』だろうか。



 ジュラシックパークが好きだ。


 1993年に公開された、スピルバーグ監督のシリーズ第一作は映画史に残る名作だと思う。そして名作にはままある事だが、続く二作目、三作目はかすみがちだ。

 それでも印象に残るシーンはある。


 あれは確か、ジュラシックパーク3だった。霧に閉ざされた吊り橋の向こうから、翼を畳んだプテラノドンが橋を渡ってぬっと出てくるシーンが、やたら怖かったのを覚えている。

 正直、ギャアギャア鳴きながら襲ってくるプテラノドンが恐ろしい事しか覚えてないが、それ以外に一つだけ、記憶している場面がある。


 主人公のグラント博士とその一行が、廃墟となったかつてのジュラシックパークの施設内を探索しているシーンだ。

 仲間の1人が、飲み物の自販機を発見する。彼の名前は忘れてしまった。仮にボブとでもしておこう。

 ボブ(仮名)はその埃だらけで蔦が絡まる自販機に、まだ飲み物が残っているかもしれないと小銭を投入するのだが、電気も通っていない自販機は当然反応するはずもない。そんなボブを尻目に、グラント博士は自販機を蹴飛ばして飲み物を落として手に入れる。


 『自販機には小銭を入れるもの』という固定観念にとらわれていたボブの姿は滑稽であり、愚かだ。

 車の来ない赤信号で律儀に止まっている時、私はいつもボブのことを思い出す。

 もちろん、平和で安全な環境で道路を渡ろうとしている私と、恐竜が跋扈する施設内に閉じ込められたボブ達とでは、全く状況が違う。

 私は愚かではなく、ただ真面目に法を守ってるだけだ。


 しかし、だ。もしなんらかの理由で文明が崩壊し、法が機能しなくなった時、車の来ない赤信号で絶対に立ち止まらずにいられるだろうか。おそらくその時は電気も無くなってるので、信号も灯ってはいないだろうが、そもそも横断歩道で止まるクセがついてしまっている。

 どんな状況であろうと横断歩道は止まる、という固定観念で凝り固まっていないと言い切れるだろうか。


 ちょっと自信が無い。


 おそらく、止まると思う。車も、咎める人も、法そのものも無くなった世界で、それでも『横断歩道では止まる』という思い込みから脱せずに、思考停止して立ち止まっている自分が容易に想像できる。

 私の中にボブがいる。


 自分自身に笑われているのは、その愚かさであり、融通のきかなさだ。でもそんな自分は決して嫌いではない。と思いたい。


 そんな事を思いつつ、今日も私は横断歩道に差し掛かる。 

 信号は赤い。車は来ない。プテラノドンがギャアと鳴いた。

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