予知すべき事とは
幼い頃、ケンタッキーのカーネルおじさんが怖かった。今思えば失礼極まりないが、あの笑顔が信用ならなかった。
次に怖かったのは、かに道楽の動くカニの看板だった。
でも彼らは、私の「幼心恐怖ランキング」の2位、3位に過ぎない。両者を大きく引き離し、ぶっちぎりの首位に立っている奴がいた。
「喪黒福造」
藤子不二雄A先生による漫画、「笑ゥせぇるすまん」の主人公。
出会いはおそらく5歳位の時、アニメが放送しているのをたまたま観たのだ。その年頃の子供としては遅い時間の放送だったと思うが、なぜか私は奴に遭遇してしまった。最初は、夜なのにアニメがやってる、と興味を持った気もする。そしてすぐに、それを後悔する事になる。
ストーリー自体、ブラックで少し怖い作品ではあるが、当時は内容なんか理解できず、ただもう、喪黒福造というキャラクターが怖かった。視界に入った瞬間、台所の隅に逃げ込んで泣き喚くくらい怖かった。
ビジュアルもさることながら、何より怖かったのが、声だ。あの地獄の底から響いてくる様な低い声。「ホーッホッホッホ…」という不気味な笑い声。怖すぎてあの声に敏感になった結果、ハクション大魔王もシンプソンズのお父さんもディズニーアニメの悪いブルドッグみたいな奴も、みんな怖かった。アニメには声をあてている声優さんがいる、という概念を理解する前から、あの声だけは聞き分ける事が出来た。
そして今、大人になって感じるのは、当時の恐怖感に対する懐かしさである。
もちろん、今でも怖いものはある。命の危険に直結するものはもちろんそうだ。ヒグマに遭遇したら恐怖で腰を抜かすだろうし、夜道の不審者レベルでも十分怖い。病気や事故もそうだし、仕事やお金に関する怖いものだって、あげていったらキリがない。
私はホラー映画が大好きなので、フィクションに対する恐怖耐性はかなり高いが、大人になってもそういう作品が怖くて観られない人は多いし、その気持ちも分かる。
でもそれらの恐怖心は、あの頃喪黒福造に対して抱いていたものとは、少し違う気がする。
奴の気配を感じただけで、全身の血が凍りつき、目の前が真っ暗になり、世界が足元からガラガラ崩れていく様なあの感覚。奴がいない世界に行けるならなんでもする、と心の底から願っていたあの頃。
怖がる対象は違えど、人間誰しも幼少期にしか感じる事の出来ない、全身全霊の恐怖、というのはあると思う。そしてそれは往々にして、大人から見れば「なんでそんなものが?」と思ってしまうものに対して感じるのだ。
もし今、目の前に殺人鬼が現れて、今まさに包丁を振り下ろされるという場面になったとしても、死を目前にして感じるのはあの頃とは質の違う恐怖だろう。怖かった、という記憶はあっても、感覚としてあの恐怖を追体験する事はおそらく一生出来ない。それが少し寂しい。
もし過去に戻ってあの頃の自分に会えたら、伝えてあげたい。「君は大人になったら、笑ゥせぇるすまんの冒頭の『私の名は喪黒福造、人呼んで笑ゥせぇるすまん…』から始まる前口上を暗記出来るくらいには、このキャラクターを好きになれるよ」、と。
きっと5歳の私は信じないだろうな。そしておそらく、私を指差し母親に言うだろう。「変な人がいる」と。
私は母に、「2X年後のあなたの娘です」と自己紹介するのだ。どんな顔をするだろう。なんと言ったら信じてもらえるだろうか。
いや、相手は親だ。「そんな事、言われなくても分かってたよ」と、のび太のおばあちゃん並みの愛のファインプレーを決めてくれるに違いない。
しかし、現実は厳しかった。母は無言で幼い私を連れて家の中に消えていく。程なくして近づいてくるパトカーのサイレン。
連行された私は、どうしたら自分が未来から来た事を信じてもらえるか、必死に考える。何か大きな出来事を予言出来ればいいが、いかんせん混乱と緊張で頭が上手く働かない。あまり先の事を言っても意味がないし、下手に事件事故の類いを予言すれば、関わっていたのか、とあらぬ疑いをかけられる恐れもある。
ここはやはり、自然災害がいいだろう。この時代、近々起こる災害は何だ。警官がこっちを見ている。頭が働かない。予言どころか、この時代の首相の名前さえ出てこない。
なす術なく「あの…未来から…あの…」と繰り返している内に、やがて私は病院へ送られて行く。こんな事なら、過去になんか来なきゃ良かった。
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