推しメーカー

沖綱真優

日常系推しメーカー・忍野ミカ

 忍野ミカは探している。


「今度はこの辺りにしてやろうかねぃ」


 カーキのショート丈ダウンジャケットの首元にモコモコ白ファーマフラーを乗せ、膝上丈の白ニットスカートから伸びる脚は黒タイツ、足元はパープルカラーのハイカットコンバース。

 女子高生のようにも見えるし、二十代前半にも見える若い女——ミカは、ねちっこい台詞を呟いて、ほっぺの奥から棒付きキャンディを取り出した。ベト付いた口周りをペロリ一周舐めてキャンディを一瞥すると、また口の中に戻す。


 午後十一時半、カムクラ公園前。手前の一角が児童遊具のエリア、奥には小さな丘を含めた散歩コースが広がっている。空に星の気配はなく、後ろにそびえるマンションの灯りも背景以上の効果がない。


 薄暗い公園の入り口で、ミカは車止め用ブロックの半球に乗っかって中をうかがった。所々に設置されたソーラーパネルと蓄電池のついた屋外灯の、まぶしすぎる光に視線を吸い寄せられる。広範囲を照らさずに真っ直ぐ届く光に目を奪われないよう、ミカは視点を下にずらして首をゆっくり動かした。

 トンネルみたいなすべり台がふたつ伸びる遊具、何本もの支柱に網目の大きなネットが横向きにたわんで張られている遊具、背もたれの付いたプラスチック製イスが三台ぶら下がったブランコ。傾いだドーナツはなんだこりゃ。


「ひとがいなけりゃ、遊び方も分からんねぃ」


 謎のドーナツ遊具の方を向いて、ブロックから飛び降りる。着地の勢いで石畳の上の砂粒が、コンバースの右足だけを滑らせた。ずざぁ。足だけでなく、両手もバランスを取って開く。ヨガの英雄のポーズで止まったミカが、首をぎぎぎと身体に合わせると、ブランコが目に入った。

 さっきも見た。が、ブランコの向こうの屋外灯に眩まされて見えなかったものが見える。揺れだ。微かに揺れてる。風は吹いているが、ブランコを揺するほどの強風ではない。しかも、片側の鎖がねじれながら揺れている——人間の仕業だ。時間的に子どもとは考えにくい。つまり。


「おっきなお友だち。どっこかなぁ〜あっちかなぁあ〜」


 ミカは、にたぁと笑って視線を奥へと向けた。

 児童遊具エリアの端にはバスケットゴール、その向こうは小さな丘だ。見えない。見えないなら、どうする。

 ミカは目を閉じ、ガーネットのクズ石が付いたピアスの留め具を二度回した。聴力アップのオマジナイ。


 がさりがさりと芝生の上の落ち葉を蹴り歩く——ゆったりとした足音と小さな吐息が聞こえた。真冬の夜の公園で、白く重い息と足取り。おそらく若い男。


「見ぃつけたぁ〜〜」


 ミカもゆっくりと歩き出した。スニーカー忍び寄る人にしっかりと仕事をさせて。



 *



「はぁ〜〜」


 しゃくしゃくしゃく。真夜中の公園、枯れた芝生の丘は、思った以上に寒い。どうしてこんな夜中にウロついてるんだろう。明日も仕事。早く帰って風呂入って寝れば良いのに。

 分かっている。ただ、帰りたくないのだ。


 フジタは、帰りたくなかった。ワンルームマンションの部屋は、吹きさらしの外よりも冷えている。誰もいない部屋。人気のない狭い空間——低い天井の染みに見下ろされて、迫る壁に脅かされるくらいなら、星も月も何もなくてもだだっ広い公園をひとり占めする方がいい。


「はぁ〜、仕事、辞めよっかなぁ」


 白い不織布マスクから白い息が漏れる。発光ダイオードの不自然な明るさに霞む世界が余計に霞む。

 しゃくしゃくしゃく。

 なだらかな丘のてっぺんに着いた。下に四阿あずまやが見える。屋根が骨組みだけの、雨宿りも日除けもできない四阿。そばに立つ照明は昔からある電灯で、そこだけが別世界に思える。

 丘を降りて、ほのかに照らされたベンチにすとんと座った。尻の下は氷の冷たさだ。後ろに手をついて、空を見て、何もない曇天の空に白靄を流した。

 寒さに少し冷静になったか、フジタは自身の靄を浴びながら自問した。


 何が悪かったんだろう。


 大口取引先の担当を降ろされた。

 先方へ提示した資料——通常業務の合間を縫って三ヶ月前から準備した資料については仕様書を熟読して作成にあたり、記載ミスや不適切な表現もなかったはずだ。電子データ不可の図面についても係長の確認を取った。

 プレゼンも上手くいった——もちろん、初顔合わせだし、相手は役人なのだから、普段より緊張したのは確かだ。以前から付き合いのある地方ではなくて国と聞けばなおさら。


「エダ係長、酷い剣幕だったなぁ」


『担当者の変更を交渉条件にしてきた。何をしたんだ、お前は、ウチを潰す気か!!』


 何も。


 指定されたレンタルオフィスに出向いて、先方ふたりとウチのヨネダさんとミカミさんに資料を配付して、説明しただけだ。

 ほかに落ち度は……。プレゼンの極意——先月購入して熟読した実用書を思い出す。


 臭い——。先週からラーメンも焼き肉も食べず、ニンニク断ちしている。会議の前に歯磨きもした。何よりマスク越しに口臭がするほどの距離で話してない。

 清潔感——。スーツはクリーニングに出したばかりだし、散髪も日曜日に行った。

 あとは。

 笑顔であいさつ。自信みなぎる発声。

 内容も大切ですが、第一印象が悪ければ内容は伝わりません——。親しみを込めて名前を呼びかけましょう——。


『ナカシマさん……先日どこかでお目にかかりませんでしたか?』


 アレが余計だったか。

 奥の手というか禁じ手というか。すれ違った——気がするだけでも。もちろん頻繁には使えない。面識のある人間を覚えていないとき、人は大なり小なり後ろめたさを感じる。付け込むような姑息な手段、本のネタにしてもジョークに近いと思ったが、クライアントに対面して咄嗟に——会ったことがある気がして——言ってしまった。


「何だコイツって思われたのか」


 一瞬眉を顰めたか、メガネとマスクで判然としない。思い出そうと思案しているようにも見えた。プレゼンで挽回できないほどの悪印象を与えたのか。


「サイテーだなッ」


 呟きは誰もいない公園に響いた。ジブンの言葉に、フジタはさらに沈み込む。


 クズだ。ゴミだ。

 大口クライアントの交渉を任せられて浮かれて。バカすぎる。舞い上がって失敗して。

 公園でひとりぽっち。帰っても家で待つ人もいない。

 グチでも優しく聞いてくれて……いや、何も言わなくても聞かなくてもいい。嫌なことも疲れも、笑顔がすべてを包み込んで癒してくれる、そんな人がいれば。例えば——ミカミさんみたいな。


「はぁ〜、ツライ、寒い……」


 かさりかさりかさり。

 落ち葉が転がる音にぶるり震える。風は吹いていない。何かの、気配。

 フジタは背後を振り返った。


「心のすき間、あっためてやろうかねーーぃ」


 え、と声に出す間もなかった。見えたのは飴玉だけだった。赤く光る飴玉。ゼリーよりも柔らかい、ナメコのようなヌメリを帯びて、フジタに向かってくる飴玉が。


 すこーん。


 額で、弾けた。



 *



 てれれれてーれっれーーー。


 懐かしいファンファーレに目が覚めた。


 フジタはレベルがあがった!

 フジタはレベルがあがった!

 フジタはレベルがあがった!


 空を背景に、透過率三十パーセントくらいの黒四角の内側に白文字が浮き上がる。右下に出たリターンマークが点滅したかと思うと、文字枠と一緒に消えた。

 あとには草原が広がり、ワンクリックで塗ったような青空に雲が浮かぶ。上三つ、下三つの波線に囲まれた、ザ・雲。


 ててててーん、ててーん、ててててーん。

 ざしゅ、ざしゅ、ざしゅ、ざしゅ。


 軽快なピコピコ音が天から降り、規則正しい動きで二頭身ドット絵のフジタは歩く。

 足首高さのギザギザ草を踏みしめて、すぐ前の賢者の後ろ頭を眺めながら、戦士フジタは四人パーティの一番後ろを歩いている。


 ずずーん。きゅるきゅるきゅる。


 急転直下。

 空は曇天を超えて一瞬の暗闇に、イマドキの充電マークに使われるような形の黄色い雷が三つ。今の今まで何もなかった草原に突然現れた巨体ふたつ。一本角の青いひとつ目ぎょろり睨んで、先端さきっちょ膨らむ棍棒持つ腕、振り回さずとも振り回す。全身裸で腰だけボロで、隠しているのは大人の事情。

 すわ臨戦体制、思うでもなく表示するウインドウ、迷うことないカーソル移動。ピッピッ、ピッピと選択完了。この間八秒。


 ゆうしゃは、フルデュルオンをとなえた!

 ぶとうかは、カイザークロウをはなった!

 けんじゃは、フランブローネンをとなえた!

 フジタは、まもった!


 てれれれーーん。


 キングネスオーガはたおれた!

 キングネスオーガはたおれた!

 フジタはレベルがあがった!

 フジタはレベルがあがった!


(なんだ、これ)


 ざしゅざしゅざしゅ。再び動き出したパーティの一番後ろで、フジタは目を白黒させた。

 草原を賢者の後ろについて歩いているのに、フィールドを俯瞰している。意識が分裂しつつ同居しているような不思議な感覚だった。

 それにしても、見覚えのある画だ。小学生の頃よく遊んだテレビゲーム。四人パーティで旅をして、魔王を倒し、お姫さまを助ける、いわゆるロールプレイングゲームだ。フジタ扮する真っ赤な鎧の戦士は、体力と防御力に秀でていて初期メンツに選ばれがちだ。

 ただ、状況から推察すると、戦士フジタは途中——ごく最近加入したようす。


 このゲームでは、主人公の勇者以外は酒場で好きなメンバーを選んで仲間にする。戦士、僧侶、魔法使いなどの職業によって戦闘役や回復役と役割分担があるから、普通は四人パーティを組むのだが、一度クリアした後は、勇者ひとり旅や回復役なしなどの縛りプレイで楽しむ。


 (三人パーティでクリアするつもりだったけど、戦士を入れた……?あ、戦士が必須のサブイベントがあった。外しに戻るのも面倒だからそのまま……)


 パーティは強敵モンスターをなぎ倒し、イベントを次々とこなしていく。

 さらわれたお姫さまは一度魔王城から逃げ出して、魔王城へ行く方法を示した地図を隠した。隠し場所を示すアイテムは、逃亡中に出会った村人、商人、魔族の娘に預けてある。アイテムを譲り受けるために、彼らの無理難題を叶える——。

 が、すでに物語は終盤。地図を入手するための最後のアイテム、『光のマンダラ』を持つ魔族の娘を救うために『哀しみの塔』へと乗り込む。

 イベントボスのザマァ・ミサラセは魔王の四天王最後のひとりで、体力も防御力も高く、ただでさえ高い防御力を防御呪文でさらに上げてから物理攻撃をカマしてくるスキのない敵だ。


 ゆうしゃは、フルデュルオンをとなえた!

 ぶとうかは、うつりまいをおどった!

 けんじゃは、しろいきせきをはなった!

 フジタは、まもった!


 どどーん、てんてけてんてん、しゅぉんしゅおんしゅおぉん。


 ミサラセに、九十ダメージ!

 ミサラセは、ぶとうかといっしょにおどっている!

 ぜんいんのステータスが、もとにもどった!


 だいたいのボス戦においては、長丁場の戦闘を少しでも優位に運ぶために、攻撃力や防御力を上昇させる補助魔法を掛ける。いわゆるバフというやつで、僧侶や魔法使い、ふたつの職業をある程度上げてから転職する上級職の賢者は、バフと回復魔法にリソースを割かれるのだが、このパーティは補助魔法を捨て、賢者の『白い奇跡』——敵味方関係なくステータスの上昇を元に戻す技——で、相手の防御魔法をキャンセルしている。ついでに、武闘家ぶとうかは元踊り子ぶとうからしい。成功率三割ほどの、相手の行動を封じる踊り『移り舞』まで使えるとは。勇者は最強呪文でマジックポイント消費の激しいフルデュルオンを連発するし、やり込み感パネェ。


 順調にミサラセの体力を削っていく勇者パーティ。しかし、ミサラセも全体魔法や全体攻撃で反撃する。パーティの回復役は賢者だけ。当然、『まもる』だけの役立たずは後回しになり。


(あっ、死んだ)


 ウィンドウのフジタの表記が白から赤に変わり、真っ赤な鎧の二頭身ドット絵が棺桶になった。そのまま戦闘は進み、計ったように賢者が復活呪文を唱えてフジタが甦った直後、勇者の会心の一撃がミサラセを葬った。

 断末魔と共に死骸は消え、奥へ進むと、魔族の娘がいる。


 ゆうしゃさま、どうかおひめさまをおたすけください。

 やみにのまれたまおうが、あんねいをえるには、ゆうしゃさまにたおされるしかないのです……。


 娘はかつて魔王と恋仲だった。魔族とはいえ優しい少年だった魔王。ふたりは将来を誓い合い、小さな村で幸せに暮らしていくはずだった。村長である父親の代理で魔王が村を離れた日、村は滅ぼされ、娘は連れ去られた。村の伝統工芸である、布地に光を編み込む技法を狙った人間の仕業だった。

 復讐を誓って魔王になった少年。娘の声はもはや届かず、安寧を与えるのは死のみ。


 魔族の娘から受け取った『光のマンダラ』と残りのアイテムを組み合わせると地図の在処が示された。転移魔法で最寄りの街へ移動し、草原へ繰り出し——


(なんのためにいるのかなぁ)


 敵のステータスも上がっていくというのに、圧倒的な強さでエンカウントしたモンスターを倒していくパーティ。フジタは、ほとんど『まもる』のみ。ときおり成長度合いを確認するためか、『たたかう』が選ばれるが、相手に与えるダメージはゼロか、よくても一ケタだ。

 疎外感。ひとり次元の違う——低いレベルで、周りの足を引っ張って。現実と重なる。


『いない方がマシじゃないですかね、オレ』

『そんなワケないでしょう?フジタくんが仕事に慣れないなら、指導役ブラザーである私の責任ね』


 現場で監督の話についていけずに怒られて、自分だけじゃなく会社まで悪く言われて。ミカミさんは、ため息と弱音をそのまま受け止めてくれた。

 見返してやりましょうねって渡された本は、数も内容もヘビーだったけど、必死で勉強したら、同じ現場監督が今度は褒めてくれて。

 思わずハイタッチした手は、オレより大きくて——。


 フジタの心情など構うことなく、地図を入手した勇者パーティは、魔王城に乗り込んだ。

 背景は灰色のレンガと時おり噴き上がる火炎、道中のモンスターから愛嬌は完全に消え失せ、血走ったマナコに突き出すキバ、警戒色から闇に溶け込む黒一色までイカにもヤバげが盛りだくさん。

 サイズも巨大化し、画面の関係で同時に二体までしか出現しなくなったとはいえ、複数回攻撃や全体攻撃の頻度が上がり、むしろパーティが受ける攻撃の回数は増えていた。こうなるとミサラセ戦と同じく、レベルの低いフジタだけが死んでしまって、パーティの一番後ろを棺桶のまま引きずられていく。


(なんのために連れて来られたんだろう)


 棺桶の状態では賢者の後ろ頭も見えない。俯瞰的に——ゲーム画面のように全体を眺めるだけだ。モンスターとのエンカウントの度にチカチカ光りながら画面が渦巻き、ドラゴン始祖鳥アーキオーニス六本腕の骸骨ボーンファイト剣を帯びた影シャドウナイトが現れる。メッセージウィンドウと選択画面の中のカーソルがめまぐるしく動き、モンスターが震動し、一匹、また一匹、闇に還っていく。

 戦闘が終わればまた、移動だ。誰も見向きもしない棺桶が、一番後ろをひっそりと付いていく。


(あぁ、でも、終わる……)


 長い長い魔王城のダンジョン、永遠にも思えた苦痛が、やっと終わる。最後の階段を上って、巨大な扉を開けば。そこに。


(え?)


 異様な空間だった。それまでのドット絵ではなく、妙に立体的で、コンピュータグラフィックスとも違う現実的な質感を持っていた。

 暗い空間に、人ひとりがぎりぎり通れる幅の曲がりくねった石の通路が奥へと続いている。底は見渡せず、欄干のない橋のような通路から足を踏み外せば、果ての分からぬ奈落へと真っ逆さまだ。

 勇者パーティが扉から空間へと一歩足を踏み入れる。通路の両端に設えられた松明が、手前から順にゆっくりと灯っていく。仄かな明かりは闇を晴らすどころか、より一層闇の濃さを引き立てる。明かりを追いかけて視線を奥に向けると、魔王と、鳥かごのようなカゴに入れられている、冒険の目的であるお姫さまが——。


(ミカミさん?!)


 囚われのお姫さまの姿は、会社の先輩で指導役のミカミさんに見えた。ミカミさんもこの世界に囚われたのか。オレも、オレも居ます。ミカミさん、ミカミさんッ。フジタは何度も声を張り上げる。棺桶はコトリともせず、流れる音楽も効果音も反応しない。

 一歩、また一歩。勇者パーティは通路を歩き、魔王の玉座のすぐ前、凝った意匠の赤い絨毯が敷かれた広間へと辿りつく。


 でゅーんでゅーんでででゅーん。


 おどろおどろしい音楽に変わって、暗転。透過率三十パーセントで薄らと見える、映画のセットのようなリアルな王座を背景に、ふたりの姿がアップになって、お姫さまと魔王の会話が流れる。

 魔王には勝てない、逃げて、というお姫さま。勝ち誇る魔王が、右手を勇者パーティにかざすと、人差し指にはめた指輪が黒い光を放ち、棺桶以外の三人は石——色がグレースケール——へと変わってしまう。


 ははははは、にんげんよ。ただのむすめのためにゆうしゃのちすじをたやすとは、おろかなり。


 魔王のセリフとともに、終わりの始まりを表す重低音が響き渡る。勇者は敗れ、人間の世界は滅ぶのだ。フジタもこのまま、世界とともに葬り去られる。見えない天井から、ゆっくりと闇が浸みてくる、絶望——。


 りんん……。


 このときを、まっていました。


 鈴の音。そして、女性の、淑やかでいて芯のある声——ミカミさんそのものの声——が続く。

 お姫さまは、オリから外へと手を伸ばす。バチバチと雷が襲う。脂汗を流しながら耐え、ついに握りしめた右の手がオリを突き抜けて。


 ひかりよ、やみをしりぞけるしんのちからを、かのものにあたえたまえ。ゆうしゃのむすめが、めいじるっ。


 お姫さまの右手がまばゆい光を放つ。握った手を開くと、血がぽたり落ち、ペンダントがぶら下がる。光の秘宝。を吸って闇を払う、退魔のアイテム。


 しゅんしゅんしゅんしゅん。


 ホワイトアウト。一瞬、すべてが白く塗り替えられて視界を奪われる。光が落ち着いた時、魔王の間のおどろおどろしい薄暗さはすっかり消えて、昼の明るさに変わっている。勇者パーティの三人、勇者、武闘家、賢者も元の姿に戻った。変わらないのは、棺桶だけ。


 イベントシーンが終われば、消化試合のようなもの。魔王との戦闘が始まると、道中のモンスターを圧倒してきた強さを発揮して、危なげなく斃してしまった。

 負け惜しみのセリフを残して魔王が消え、魔力も消えて、お姫さまを捕らえていたオリが消滅した。お姫さまが、勇者が、互いに駆け寄る。


「カズナっっ」

「マサヒコさんっっ」


(えぇええ?!)


 ふたりはぎゅうと抱き締め合い、頬と頬とを寄せた。しばし相手の熱を感じてから、惜しむようにほんの少しだけ身体を離して見つめ合う。互いの瞳の中に互いの存在を確認すると、ようやく安心したのか、周囲に仲間がいることを思い出して真っ赤になり、ふたり同時に距離を取った。それからまた顔を見合わせて笑う。勇者よりも背の高いお姫さまは、愛する人の後ろ頭を優しく撫でた。


 その光景は、だった。

 ミカミさんがお姫さまなら、ヤマノウチさん——ミカミさんのダンナさん——が勇者なのは当然だ。資材部のヤマノウチさんは痩せ型でメガネで、風貌は少し地味だ。でも、仕事はできるし、気配りもスゴくて、設計部のみならず調達先の信頼も厚い。

 頼りになるアネキ分でガテン系だけど癒やし系でもあるミカミさんが結婚していると知った時はショックだったけど、ヤマノウチさんなら仕方ないかと納得もした。

 ただ、ミカミさんの姿をいつも探してしまうし、ヤマノウチさんとふたり並んでいると、ドキドキしてしまう。失恋を引きずっていると思った。距離を取ろうにもブラザーでバディでもあるミカミさんと距離を置くということは、小さな我が社では離職するということで、さすがに決心がつかなかった。


 だけど。

 オレは、ふたりが好きなんだ。幸せそうなふたりを眺めているのが、大好きで幸せだ。

 ハッキリと判ったけれど、こんな気持ち、誰に伝えても伝わらないだろうし、気持ち悪がられるだろう。どうすれば。


『ならば、そっと心の中で推すが良い……よい…よい——』


 周りには誰もいなくなっていた。魔王城もなく、草原にひとり佇んでいた。そのオレに、声が響いた。

 どこから聞こえてきたのか分からない声。広々と抜けた草原のただなかで、やまびこのような、誰かの大声が反響していた。

 オレは、声に問いかけた。


(推す……、推す、とは?)


『推しへの愛は、愛のひとつの形。推しの幸せを我が幸せと感じ、生きる糧とするのだ……のだ…のだ——』


(具体的には、どうすれば?)


『近しい者への推し行為……は、推しであることを察せられてはならぬ。あくまで影より推しの幸せを見守り、心の中で愛でるが良い……よい…よい——』


(知らなかった……迷惑の掛からない範囲でコッソリ見守り、行動、行為の尊さを心の中でゾンブンに愛でる。それが、日常系、推し!!)


『新たなる知見を得て、そなたの人生は一層輝くであろう。サチあれ……』



 *



「あれ、なんか……一瞬、気が遠くなったような……」


 寒っ、と震えて、フジタは腕時計を見た。公園をぶらつき始めてから十分ちょっと。屋根のない四阿で曇天を眺めているうちに、ウトウトしてしまったようだ。

 後ろについた手を戻し、勢いをつけて立ち上がる。うーんと伸びをした。少しだけ暖まった。

 今日の仕事では上司に叱られたものの、ミカミさんが庇ってくれた。『推し』、がジブンを庇ってくれたのだ。これほど尊いことがあるだろうか。

 明日はなんと資材部との打合せだ。仕事では議論に白熱してしまうことも多いご夫婦——フジタの『推し』ふたりを同時に愛でるチャンスだ。


「さっさと帰って、風呂入って寝よ」


 今日の『推し』を思い出しながら、明日の『推し』に思いを馳せる。なんと幸せなことだろう。

『推し』という言葉に微かに違和感を覚えながらも、フジタは足取り軽く、公園を去って行った。


 そのフジタの小さくなる背中を、若い女性がひとり、丘の途中に立つ木のそばから見送っていた。暗がりでも発色のよい蛍光緑のパチンコ——いかにも子どものオモチャ——を左手にぶら下げた、忍野ミカ。


 くふふふふ。


 ミカは堪えきれずに笑い出した。

 我ながら見事な手腕だった。背後に忍び寄って、男が振り返った瞬間、クスリをタップリぶっかけた飴玉を命中させた。ここの前に通りがかった公園で拾ったパチンコが、なかなか見かけ以上の使い出だった。

 明らかな失恋を推しへとすり替え——昇華させたのも素晴らしい。本人は推しを得て幸せ、推されるふたり——ミカミとヤマノウチというらしい——は、まぁ、粘着質な視線が分散されるンだから十分だろう。ウィンウィンってことだ。それに。待てよ。会社もか。イマドキの人材不足の中、離職者を出さずに済んだなら、ソコもコッチもウィンウィンで、ウィンウィンウィンはいつもウィーンだねぃ、いぇい。


 「アンプル、今月分は、あとひとつかぁー。胸の内を曝け出させるクスリなんて、わっるイイねーぃっ」


 ミカは、紡錘形のガラス瓶をポケットから出してゆっくりと上下させた。ぬとーっとした粘度の高い真っ赤な液体が、瓶の動きに遅れて揺れていた。



 *



 『推し』とは、アイドルファンが自分のヒイキのアイドルを他者に紹介し勧める、推薦することからきたことばで、一九八十年代にはすでに存在したが、より一般的になったのは二〇〇〇年代に入ってからであった。一部のアイドルファンが掲示板などで好んで使用し、日常語としても使用されるようになっていく。

 さらに二〇一〇年代になるとより一般化され、二〇一一年には新語流行語大賞も受賞している。

 しかし、新語流行語の中にはすでに廃れたものも多い。十年前の流行語を、どれだけ覚えているだろう。

 生まれては消える新語の中で、『推し』が生き残るにはどうすればよいか——。

 簡単だ。より多くの人が『推し』ということばを——概念を使えばいい。一部のひとだけに深く浸透したことばは、専門用語だ。外部には伝わらない。では、広く一般的に流布されたら?表層的なブームは、やがて忘れ去られる。新しいことばに上書きされて。広く、それでいて楔のように心に打ち込むのだ。


 『推し』を。


 そうして『推しメーカー』は生まれた。

 推しメーカーは、手段を選ばない。心のスキマに、『推し』を打ち込み——ねじり込んでいく。彼らの暗躍により、いまや推しの対象はアイドルやユーチューバー、二次元のキャラクターだけでなく、クラスメイトや同僚にまで及ぶこととなった。


「推しを愛でる喜びを、もっとも頻繁に感じられるのは日常系だと思うねぃ。心のスキマ、あっためてやろうかねぇいぃ〜〜」


 忍野ミカは、今日も弱った人の心に土足で入り込み、『推し』を植え付けていく——。

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推しメーカー 沖綱真優 @Jaiko_3515

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