12.ロリババアと異界駅③

「優子……?」


 が、遅い。


『ドアが閉まります。ドアが閉まります。ご注意ください』


 優子の姿は電車の中。駆け出そうと前足を踏み出したときには、扉は閉まり、発車しようとしていた。


「優子!!」


 優子もまた、窓越しに芙蓉を見ていた。その表情には驚愕と失意と絶望があった。あたかも、電車によって無理矢理連れ去られてしまったかのように。優子は窓を叩き、叫んでいるように見えた。追いかけるも、とても間に合わない。


(いつの間に電車が……。それに、なぜ優子が……)


 走り去る電車を、芙蓉は見送るしかなかった。


「芙蓉ちゃん?」

「!!」


 背後の声に慌てて振り返る。

 そこにいたのは、ついさっき電車で見送ったはずの優子の姿だった。

 理解の追いつかぬ光景に、芙蓉は混乱しながら自嘲ぎみに笑みをこぼした。


(……なんとまあ皮肉なことよ。まさか、狐であるこのわしが)


 化かされている。

 だが、化かすのは芙蓉にとっても本分だ。手口はわかる。まさか自分が化かされるはずがないと自惚れている輩には、化ける瞬間をあえて目撃させる。「そいつは偽物だ。狐が化けている」としたり顔で刺し殺すと本物だった。そんな喜劇も知っている。


(幻か、擬態か)


 電車に乗った優子が本物か。いまここにいる優子が本物か。あるいは、両者とも偽物か。


「ふ、芙蓉ちゃん……?」

「優子よ。アレが食いたいの。アレじゃ」

「アレって?」

「アレじゃよ。優子とはじめて会ったとき食わせてもらったアレじゃ」

「シュークリーム? いつも連呼してるのに名前忘れたの?」


 まずは「知ってる」ことから確認する。ただ、「優子の姿を見せている」時点でこれはあまり意味がないだろう。少なくとも「相手」は芙蓉と優子の関係を「知っている」ことになるからだ。出会って数日ではたいそうな「秘密」もない。仮に芙蓉の記憶から再現しているなら「知ってる」ことを確かめることはなんの意味もない。


「大学に行っておったのではないのか?」

「うん。でも、芙蓉ちゃんが心配で……」

「大学ではなにを? なにか授業を受けておったのではないのか?」

「え? 第二外国語だけど」


 次に「知らない」ことだ。芙蓉にとって「知らない」話が聞けるのであれば、少なくとも記憶から再現した幻ではない。もっとも、「知らない」ものであるためその真偽は判断できない。芙蓉には「第二外国語」がなにを意味するのかわからなかった。


「芙蓉ちゃん、さっきから……なに? なんか変だよ?」


 優子の態度にも警戒心が見え隠れしている。どこか距離をとって……少しずつ後ずさっているように見えた。


「なるほどのう。そういうことか」


 見事な手練手管に感心する。疑心暗鬼こそが「敵」の狙いだ。これではまるで、芙蓉の方が人を化かそうと話を聞き出す怪異ではないか。


「優子よ。わしに会うのは何度目じゃ?」

「え? え?」

「前のわしになにを言われた?」


 つまり、優子もすでに偽りの芙蓉に出会っているのだ。


「なに言ってるの? なんの話?」

「いや、だからその、わしの偽物みたいな……」

「知らないけど……」

「同じ質問とかされんかったか?」

「知らないけど……というか、ここなに?」


 どうやら違うらしい。


「優子も知らんか。ここがなんなのか」

「知るわけないじゃん……なんなの……」

「優子よ。ここへはどうやって来た? ここというのは……大鏡駅じゃ」

「えっと……近城大学前駅から電車に乗って……それから……」


 そこまで話すと、優子は頭を抱えた。


「わかんない……気づいたらこんなところに……出口はどこ? 工事のミス?」


 右に左に前に後ろに、優子は忙しなく周囲を見回す。むろん、出口などどこにもない。


「芙蓉ちゃんは、なにか知ってるの?」

「知らん」

「じゃあ、どうしたらいいの……? こんな、こんな……」

「心配するでない。このような場所から抜け出すなど造作もないことじゃ」


 というのは言ってみただけだが、どうせすぐ事実になるのだから嘘は言っていない。とかく、弱みを見せるわけにはいかなかった。今度は、芙蓉が手を引く番である。


「わしについてこい」

「う、うん」


 優子から伸ばされた手を掴もうと、そのとき。

 ざわざわ……と、人々の喧騒が聞こえる。それぞれが好き勝手に話し、混ざり合い、一つの音となって、声であることはわかっても内容は聞き取れない、ざわめきである。


「?」


 背後からだ。振り返ると、そこには。

 犇めき合うように満員になった電車が、今まさに出発しようとしていた。


『ドアが閉まります。ドアが閉まります。ご注意ください』

(またか! なんだというんじゃ!)


 大勢がぎっしりと、隙間なく埋まっている。太った男、痩せた男、若い女、老いた女、あるいは子供。多種多様な人々が乗り込むが、顔がない。

 そして、そのなかに。


「優子?!」


 死んだように目を伏せる、優子の姿があった。


(どうなっておる!? 優子は、わしの後ろに……)


 再び喧騒。背後から。振り返る。

 芙蓉は、


「……な、に?」


 まるで夢から覚めたように、変哲のない風景に芙蓉はいた。

 人々がそこそこに行き交い、電車を待ち、スマホをいじっている。ベンチに座り、手すりにもたれかかり、あるいは乗車位置で行儀よく立っている。案内板の時刻表も、電光掲示板も正常な文字を映している。空を見上げれば曇りで、線路の上には雨が降っている。線路は二本。乗り場は二つ。昨日、優子に連れられた、正しい大鏡駅の姿だ。


『一番乗り場に電車がまいります。ご注意ください』

「……? 優子?」


 ただ一点、異なるのは。

 伊藤優子の不在であった。


「おい優子! どこじゃ!」


 なにからなにまで白昼夢だったのではないかと疑いたくなる。そもそも、優子にスマホを届けるため電車に乗ろうとしていたのだ。この場で優子に出会うことがまずおかしな話だ。なにもかもが「正常」に戻ったのなら、優子がいないのは当たり前といえた。

 だが。かといって。


(いたはずじゃ。たしかに)


 掴めていない。掴めなかった。芙蓉は冷え切った自らの右手を眺める。

 電車から降りる乗客に優子を探した。見知った影はどこにもない。


『ドアが閉まります。ご注意ください』

(ぜんぶ夢か? なら、優子はまだ大学にいるのか?)


 ならば、やはり電車に乗るしかない。目の前で乗り損ねてしまったので、次の電車だ。

 スマホが鳴る。ヴー、ヴーと、待ち構えたように懐で震えていた。


「なんじゃ。滅三川か?」

『綺麗な、足音です、ね』


 得体の知れない、掠れた女性の声だった。ざらついた声だ。

 だが、覚えがある。それどころではなかったが、芙蓉はまだ通話を切る手段を知らなかった。


「前もかけてきたな。誰じゃ?」

『空は青い、ですか?』


 つい先までは青かった。気持ち悪いくらいに青かった。だが、今は現実だ。雨が降り、空気は湿っている。脈絡のない問いかけだったが、真面目に答える。


「いや。曇り空じゃな」


 長い沈黙が続いた。問いに答えたというのに、なにがお気に召さなかったのか無言である。芙蓉は苛立ちながらも返事を待った。目線は今も優子を探している。

 がりっ、がりっ――と、擦るような、齧るような音が不規則に続き、沈黙が続く。


『……き』

「き?」

『そんなこといって! なんで意地悪! 意地悪ばっかり! 赤赤赤! 赤ぁ! 赤い! 赤い! 赤い! いいいい!!』


 と、通話が切れる。耳元で響いた叫び声に、芙蓉は反射的にスマホを遠ざけていた。

 呆気とられる間もなく、再びスマホが震えた。表示はやはり「非通知」。それでも出るしかない。滅三川も同じ表示だからだ。


「おい。今度こそは滅三川じゃな?」

『あ、やっと繋がりましたね。どうです、芙蓉さん。優子さんには会えましたか?』

「ん。ああ。会えはしたが……」

『それはよかったです。そこにいらっしゃるんですか? ちょっと代わってみてくれますかね。電話越しなら話せるか試してみたいので』

「いや、おらん」

『え? はぐれたんですか? 今どこです?』

「大鏡駅じゃ。おそらくな」

『おそらくって……まだ変なところにいるんですか?』

「そこは抜け出せた。よくわからんがな」

『はあ。それで、優子さんに会ったって……』


 電話の向こうで滅三川が言葉を詰まらせる。その沈黙は、なにかに気づいた沈黙だ。


『なるほど。それは大変なことになりましたね、芙蓉さん』

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