5.ロリババアと赤い女
伊藤優子には霊感があった。
といっても、それらしい体験といえば自室で一人勉強中、誰もいないはずの背後から青白い手に目隠しされそうになった――というような些細なものだ。似たような体験が他に数件ほど覚えはあるが、おばけが本当にいるなどと信じていない。ただ、友人や家族と話すかぎり、そもそもそういった体験自体がないらしい。相対的にみれば怪奇体験に遭いやすい。それはきっと「霊感がある」ということなのだろう、と理解している。
最近では、空き部屋であるはずの隣から聞こえる壁を叩く音が悩みの種になっている。怖いだけでなく眠れなくて迷惑なので、こればかりは気のせいでは済ませず何度か大家さんに相談した。もう一方の隣からは特に苦情もないらしく、あまり信じてもらえなかった。実際にその部屋を見せてもらったこともある。本当に空き部屋で、音が鳴りそうなものはなにもなかった。ただ、音が鳴っていたであろう壁には大きな染みができていた。
そして昨夜は、全裸の幼女だ。全裸だった気がするが、今は赤い着物を着ている。特に服を着せた覚えはない。思えばこの齟齬も怪奇現象に含まれるだろうか。ただの迷子と思いきや、どうやら他人の目には見えないらしい。だが見えないだけで、実体はある。いくらかの実験で確認できたし、彩もそれで納得してくれた。
見えないが、芙蓉はいる。おばけかもしれない。本人は大妖怪を名乗っていた。いずれにせよ、それは問題の入り口に過ぎない。
なりゆきで拾ってしまったが、これからも面倒を見るのか? 子供一人を養うようなものだ。ペットとはわけが違う。幸か不幸か、周囲からは見えないので世間体は気にしなくていい。あるいは、逆に言い訳の難しい状況も生じるかもしれない。そもそも見えているなら警察に届けて終わっていた。
あるいは、悪用の話にもなった。いろいろ実験を重ねたところ、たとえば物を持たせてもそれが浮遊して見えるというわけではない。つまり、光学的な透明人間とは異なる。「なぜか気づかない」という感覚らしい。万引きならやりたい放題だろう。
本人の前でできる話ではなかったが、たとえば彼女を放り出した場合。
そうやって、一人で生きることはできるだろう。あるいは、今までそうやって生きてきたのか。
あれこれとさんざん議論したが、結局は「実害がないならいいんじゃね?」というあたりで話は落ち着いた。つまりは問題の先送りだ。
実害はない。ように思う。むしろ可愛らしく見える。それこそ、座敷童が近い。なので、初めて見たときもまさかおばけの類だとは思ってもみなかった。全裸で大変だとは思っても、怖いとは少しも思わなかった。
伊藤優子には霊感がある。ときおり得体の知れない「なにか」が見えることがある。その多くは、「恐怖」を伴う。
つまり、あれのように。
(いる。なにかが)
サイゼリヤでつい話しこみ、日も暮れてしまった。
十七時。風景は赤く、不気味に染め上げられていた。
その帰路、下り坂。街灯がぼんやりと照らす道。
バチン! と、なにかが弾ける音が響いた。
空気が破裂するような音だった。具体的な音の出どころや、原因はわからない。それでも、意図は察することができた。
すなわち、こっちを見ろ――と。そういってるのだ。
(なに? あれ……)
誰か――と表現できれば、まだよかった。でもあれは、人ではない。
真っ赤なロングコートの女だった。背が高く、長い黒髪の女だった。そんな女が、ただ棒のように立っている。一見して変質者に見えた。だが、違う。
冷や汗が頬を伝う。車が通り過ぎる。一台、二台、三台……いつもと同じ交通量、いつもと同じ帰り道だ。なにも変わりはない。
人もまばらだが歩いている。坂の下から一人の男が歩いてくる。街灯のそばを通り抜けるも、特に気にする様子はない。優子の目には、男は女とすれ違ったように見えた。なにも起こらない。まるで見えていないかのように、ただ当たり前に歩いて、坂の上で立ち止まる優子の姿を怪訝そうに一瞥して、通り過ぎる。そしてその女も、通行人を気にするそぶりはなかった。
ただ、こちらをじっと見ている。気がした。
(なんで、また。私ばっかり……)
無視できる距離だ。顔も判別できないような距離だ。見なかったことにして引き返せばよい。この道を通らない場合の帰り道を脳内で模索する。うまくイメージが浮かばない。地図を検索しようとバッグのスマホに手をかけた。うまく掴めない。手が震えている。あれから目を離すのが、怖ろしく思えた。
見れば見るほど飲み込まれていくような不安を覚えるのに、目を離すこともできない。
(いつもの帰り道なのに、なんで……)
夜の闇が、迫る。
「のう、どうした。優子よ」
声をかけられ、芙蓉の手を強く握りしめていたことに気づく。手汗もびっしょりだ。
「え、あ、いや……」
ふと、視線を切ってしまった。すぐに視線を戻す。いない。
ほっ――と、息をつく。
「その、なんかね。あの街灯のところに、なんかいるな~……って気がしたんだけど」
改めて指をさす。いる。近づいている。
顔を俯け、大きなマスクで口元を隠している、長身の、女だ。
息を呑む。指先から体温が抜けていき、急速に内臓が冷えていく。
「ん? ああ。たしかにおるようじゃの」
その声が。左手に伝わる温もりだけが、たしかな足場を感じさせてくれた。
「み、見えるの? 芙蓉ちゃんも」
「人ではないな。おおかた幽霊かなにかじゃろ~? まさか優子よ。怖いのか?」
「そりゃ……うん……」
「仕方ないの~。人間はいつの世も物の怪やら怨霊やらを畏れるからの~」
「そっか。芙蓉ちゃんも幽霊みたいなもんだもんね」
「大妖怪な」
パッと、芙蓉が手を離した。
「まあ見ておれ。わしが少し挨拶に行ってやろう」
そういって、トコトコと歩き出す。待って――と呼び止めるにはもう遅かった。
「わたし、きれい?」
女は、歩み寄る芙蓉に、そう声をかけた。
そのフレーズには優子も覚えがあった。その風貌もあわせて、あまりにいかにもだ。
かつて日本中を騒がせたという都市伝説。五十年近くも昔に流行し、やがて沈静化した、噂がある。悪戯による模倣犯まで出現したといわれている。
であれば、あれも――そう思おうとしたが、やはり違う。自転車に乗った高校生が通り過ぎたが、気にするそぶりもない。あれほど目立つ女性を、果たしてああも無視できるものだろうか。
声が、雰囲気が、異なる。人間ではない。そう感じる。まるで冗談なのに、笑えない。
「ねえ。わたし、きれい?」
有名な都市伝説だ。対処法も伝わっている。それは返答の仕方であったり、なんらかのアイテムであったりする。だが、具体的になんであったか。思い出せない。大して興味もなかった。内容もバラバラだったと思う。それも「ただの噂」と一笑に付していた理由だ。
しかし、実在していたのなら?
「あ? なんじゃと?」
芙蓉が反応する。質問に答えようとしている。
噂の真偽はわからない。正しい答えがあるのかも不明だ。それでも、確実に口にしてはならない「不正解」はある。
「ふ、芙蓉ちゃ――」
「わしの方が綺麗じゃがー?!」
と、思わぬ言葉を口にした。
「今でこそこのような童女であるがな? その正体は国を傾けるほどの美女ぞ? 自らの美を人に問うようではまだまだじゃな。自らの美貌をこの世の理であるがごとく振る舞うのじゃ。その自信が美をさらに引き立てる。かといって威張り散らしてもいかんぞ。相手が口を噤むほどの淑やかに振る舞うのじゃ。妬みや嫉みを持つことすら畏れ多いと平伏すほどにな? つまり美しさとは
怒涛の説教(?)が浴びせていた。優子はわけもわからず立ち尽くす。
――バチン!
それが、突如。空気の弾けるような音と共に、途絶えた。
「え?! あ、あれ……?」
月明かりも、星明かりも乏しい。世界は夜に溶けてしまった。命綱が切れたような、宇宙にただ一人取り残されたような。右を見ても左を見ても、助けてくれるものはなにもない。まばらな人通りも車通りも、急に消えた。ように感じた。
「終わったぞ」
「ひぃあ」
思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。芙蓉だ。気づけばすぐ隣にいた。視線を戻す。街灯も問題なく夜道を照らし、得体の知れない女はもうそこにはない。
「き、消えた? な、なんだったの。あれ」
「ん。まあ、幽霊みたいなものじゃろ」
「みたいな?」
「なんにせよ、もういないじゃろ? 行くぞ優子よ」
「う、うん」
もう頭が限界だ。今日は飲んでいないのに、昨日より頭がくらくらしている気がする。芙蓉の手を握り、坂を下って降りていく。一歩一歩の足取りが重く感じられた。
伊藤優子には霊感がある。
いつも気のせいで済ませてきた。それもいよいよ、気のせいでは済まなくなっているのかもしれない。
となると、頼るべきは警察でも医者でもなく、いわゆる霊媒師なのだろうか。
「あの、芙蓉ちゃん」
「ん?」
「その、ありがと」
それとも、すぐ隣を歩く小さな大妖怪か。
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