6.ロリババアと百鬼夜行
「滅三川。おるか、滅三川!」
深夜。伊藤優子が寝静まったあと。
芙蓉はこっそり抜け出して、隣の部屋に出向いていた。昨夜は扉一つ開けるのに数分もかかっていたが、もはや秒である。信じられない学習速度であった。
芙蓉もこの場では気を抜いて、妖狐としての耳と尻尾を露わにしていた。
「あ、いますいます。いらしたんですね芙蓉さん」
「うおっ?! 急に出てきおって。まあよい、今日は壁を叩いてはおらんようだな。感心感心」
「いや~、意識してみるとちゃんと止められるものですね。いびきみたいなものかと思ってましたけど。ところでなんの用です?」
「おぬしが昨日話していたことがわかった」
現代では、妖怪や幽霊はそもそも存在しないものだと思われている。
滅三川に聞いたその話を、今日一日で芙蓉は痛感していた。まさか人間に存在が認識されないなどとは思ってもいなかったのだ。
「僕はふつうに見えるんですけどね」
「そりゃおぬしは幽霊じゃからな」
「たしかに、僕が生きてたときも見える人と見えない人がいた気がします。霊感があるとかないとか」
「霊感?」
「あ、これもわりと新しい言葉でしたっけ? 霊が見える人を『霊感が強い』――なんていうんですけど」
「つまりそれは、霊が見えないものがおる、ということじゃな?」
「そうですね。話を聞くかぎり優子さんだけが見えるということなので、つまり優子さんは霊感が強いということなのかもしれません」
「ふむ。なぜ優子だけが見えるのか、というのはわからんが……現代人の大部分にとって
「なにかあったんです?」
「優子が『実験』と称してわしに何度か行動を指示してきおった。わしも今日は勉強じゃと思うて大人しく従っておった。そしてあやつの友人――彩とかいうのとの会話も黙って聞いていたのだが、これがな。なんというか……、理路が通っておるのだ」
芙蓉の姿はなぜか優子にだけ見え、彩をはじめとしたそれ以外の人間には見えない。
では、芙蓉が彩の袖を引っ張ったらどうなるか。ピザを食べたらどう見えるのか。いるはずの場所に手を伸ばして触れてみたらどう感じるのか。声も聞こえないが、机を叩くなど音を鳴らしたらどうなるか。字を書くことでコミュニケーションはとれるのか。そんな「実験」が幾度となく繰り返された。
まず仮説を立てる。仮説を証明する方法、あるいは反証する方法を考える。実験する。結果を解釈し、仮説を棄却するなり補強するなりして、また繰り返す。観察を続けるうち、彼女らがそういった筋道立てた思考法をしていることが芙蓉にもわかった。
結果、姿の見えていないはずの彩も、やがて芙蓉を実在するものだと理解するようになった。そして、そこには「驚嘆」こそあれ、「恐怖」はない。
「つまりだ。
「ははあ、なるほど?」
「わしの知る人間というものはな、疫病や天変地異など見えないものを怖れ、そこに怪異を見たのだ」
「現代人は、もう怪異を見る必要がない。だから見えない、と?」
「そういうことなのかもしれん。怪異の恐怖は、今や一部の人間だけのものになってしまった。幽霊や妖怪をそもそも信じておらんというのもわかった。試しに大妖怪を名乗ってみたが、あまりに反応が薄くての……」
「なんだか興味深い話です」
でも、個人差はあると思いますよ――と、滅三川は補足した。
「僕としては、そのお二人が特に賢いだけなんじゃないかって思いますけどね」
「そうなのか?」
「だいたいの人は、そこまでは――いえ、どうでしょう。でもたしかに、芙蓉さんのいた時代よりはそういった科学的思考は一般的になっているんじゃないかとは思いますが」
「であろうな。夜道を照らす灯りのように、人は未知を照らす灯りを手に入れたのだな」
数千年を生きる途方もない知性が、昨日の今日で現代社会を切り込んでいく。「道」と「未知」がかかっているのは気づいても指摘しないでおくのが粋だ。
「だが、それでは困るのだ。尾が一本しかなくなっているのも、おそらく同根の問題じゃ。
「じゃあ、あれじゃないですか? 芙蓉さん、せっかく見えないんだから人間社会で暴れ回ってみるとか。物でも盗めば、さすがにいつかは気づきますよね。そういうのを繰り返してれば、いつかは芙蓉さんを見ずにはいられなくなるんじゃないです?」
「莫迦もの。わしの正体をわざわざ人間に知らしめてどうする」
「あ、そういえば」
「わしの本領は人間社会に紛れ込むことじゃ。
「でも、芙蓉さんって姿を変えられるんですよね? 暴れるだけ暴れて力を取り戻したら、あとは姿を変えて……」
「うまくはいかん。直感じゃがな。おぬしのいう不可視をいいことに暴れ回るという策は、
「そういうものですかね?」
「もっと根本から問題に当たらねば意味がない」
芙蓉は滅三川の言葉を遮るように続けた。
「人間が
「え、僕ですか?」
「そうじゃ。おぬしたち、現代の
「その、たちって、……その後ろの方もですか?」
「後ろ……?」
寒気がする。耳がびくびくと震えている。背筋を撫でられるような気配。
息を呑み、意を決して振り向く。
「お、おらんではないか……?」
「いえ、いましたよ。その、人間っぽい、影……みたいな……?」
滅三川の曖昧な証言に、芙蓉はたしかな心当たりがあった。
「ぬぉぉぉ!! いつの間に! あのときか! 突然消えたと思うたら! それが今わしの背後に、憑いてきておるというのか!」
「今日の外出は、ずいぶん楽しかったみたいですね?」
「なんでわしの前でもいたりいなかったりするんじゃおぬしらは!」
「たしかに芙蓉さんにも見えないときがあるっていうのはおかしいですね。ホントにいなくなってるからじゃないでしょうか。あ、また後ろ」
「なぬっ」
ちらり、と背後を見る。いた。
目が合った。のだろうか。それが目なのかはわからない。ひどく簡略化された案山子のような曖昧な影が、微笑む。ように見える。
「のう。なにか言ったらどうなんじゃ」
幽霊なのかもわからない。意思があるのかもわからない。感情があるのかもわからない。由来がわからない。正体がわからない。凍りつくような沈黙。少しずつ顔のようなものが、精度を高めているように見えた。
「六、です」
男とも女ともつかない抑揚のない声で、
「な、なんだったんじゃ……」
よくわからない
「なんだか懐かれてるみたいですね」
「犬や猫じゃあるまいし」
「あるいはストーカーかも……。あ、もしかしたらいけるんじゃないですか、これ。このまま百鬼夜行を目指すんですよ」
「ほう?」
「いいんじゃないですか、百鬼夜行。芙蓉さんがいろんな怪異を従えて、いい感じに力を合わせれば怪異の復権も叶うんじゃないですか」
「あんなのをぞろぞろ引き連れるのか? それこそ身動きがとれんではないか」
「まあ、ものの例えですよ。僕なんかはこの部屋から動けないので実際の百鬼夜行には参加できませんが、気持ちでは芙蓉さんの百鬼夜行の加わっているつもりですよ」
「ほう。そうかそうか。まあ、頼りにしておるぞ」
芙蓉はぶんぶんと尻尾を振った。
「あ、だとしたら僕は壁を叩き続けて優子さんを怯えさせた方がよかったんじゃ?」
「やめんか。そもそも迷惑なだけで大して怖がってはおらん」
「そうですか……。僕、あまり力になれませんかね?」
「そうじゃな。ま、気にするな。大きな企みには時間がかかる。なにが起こるのか。なにができるのか。わしらは闇の中におるが、闇こそ
邪悪が、闇に蠢きはじめた。人類が築き上げてきた理性の城が崩れ去り、闇に飲まれる日も近い。
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