3.ロリババアと幽霊部屋②

「あ、ども。こんばんは。すみません、気づきませんでした」


 首を吊った男は、首を吊ったまま気さくに話しかけてきた。その姿を現代人にわかりやすくいえば、よれよれのワイシャツを着た青年である。首に縄がかかってはいるが、表情も穏やかそのものだった。


「なんじゃ。幽霊か」


 急に現れて驚いたので尻もちをついてしまったが、驚いただけだ。誰だって急に後ろから現れれば驚く。人間だろうと大妖怪だろうと同じことだ。ただし、大妖怪は人間と異なり幽霊おばけをいちいち怖れたりはしない。その点は大きな違いである。


「あ、すごい。姿が見えるだけじゃなくて話もできるんですね。子供だからですかね?」

「わしは童ではないぞ」

「あ、そうなんですか? すみません。霊能者の方ですか?」

「れいのうしゃ? わしは大妖怪じゃ。見よ、この輝く九本の尾を!」


 隠していた耳と尾をこれ見よがしに露わにし、髪も本来の金色こんじきを取り戻す。狐火を散らす演出も欠かさない。顕れるは、なにものも畏れ慄くしかない荘厳なる威容である。相手が人ならざるものなら明かしてしまった方が話しやすい。正直、誰かに正体を明かしたくてうずうずしていたのだ。

 そう、今世において「芙蓉」を名乗る彼女の正体こそ――かつては殷の妲己。天竺の華陽夫人。周の褒姒。玉藻の前。時の権力者を誑かし、残虐のかぎりを尽くし、人の世に幾度もの禍いをもたらした邪悪なる化生。

 大妖怪・白面金毛九尾の狐である。


「一本しかないですけど」

「なぬっ?!」


 背後を見れば――半回転。今度は左から――半回転。たしかに一本しかない。


「一本……? わしの尾が、一本……?」

「って、妖怪?! ホントに妖怪、なんですか……?」

「大妖怪な」

「ひぇぇ……トリックとかじゃないですよね? まさかホントに……」

「なにを驚く。あやかしならそこらじゅうにおるではないか。ここでも見たぞ」

「そ、そうなんですか? 僕、幽霊になってから誰とも話してなかったので……」


 幽霊にしてはずいぶんと話せる。だが、気になっているのは頭の高さだ。


「すみません。吊ってますからね、首……」

「降ろせんのか?」

「うーん、これが僕の死んだままの姿ですからね」

「なぜ死んだ? 自死か?」

「そうですね。過労で精神が参ってたんだと思います。死んで冷静になってみると、死ぬほどではなかったな……って気がしてますけど」

「自死して幽霊になったやつはだいたいそういうな」

「でも、生きてるときはホント切羽詰まってて、死ぬことしか考えられないくらい追い詰められてて……。鬱とかってつまり脳の病気じゃないですか。死んで肉体から解放されるとそういう病気からも解放されるんじゃないかって。あれですね、RPGとかでいったん戦闘不能になると他の状態異常が治るような、あれと近いことなんじゃないかと思います」

「なにをいうとるのか全然わからん」

「えっと、あなたは……すみません、僕の話ばかりして。お名前はなんでしたっけ」

「芙蓉じゃ。今はこの名で通すことにしておる。おぬしは?」

「それが、そのへん記憶が曖昧なんですよね。この部屋に住んでたのはたしかなんですけど。なので、滅三川めさんがわとでも名乗ることにします」

「滅三川?」

「あれ、知りませんか? 幽霊になったら一度は名乗りたいやつじゃないんですか?」

「いや知らんが……そうでなくてな。おぬしにはいうことがあって来たんじゃ。急に後ろから現れるのはいかんぞ。びっくりするからな。ああいうのは怖いのとは違う。驚くだけじゃ。怖いのとは違うからな」

「すみません。ウトウトしてると存在が薄くなってしまうみたいで……」

「ん? いや……あれ? 違う違う。そうではなかったわ。騒音じゃ。隣に響いておる。壁を叩くのをやめるのじゃ。やかましいからの」

「え、叩いてました? 壁」


 そういいながら、滅三川は吊られながらギチ、ギチと縄を軋ませながら揺れている。


「それじゃ! それ!」

「あ、ホントだ。なんでしょうね。死ぬ直前の動きをトレースしてる感じですかね」

「それ迷惑じゃからな。やめるんじゃぞ」

「あ、はい。すみません。わざとではなかったんですが……努力してみます」

「うむ。よろしい。さて、これで用は済んだの。帰らせてもらう」


 芙蓉は滅三川に背を向けた。


「あ、待ってくださいよ。せっかくだからもう少しお話ししましょう」

「話?」

「僕も妖怪になんて会えるとは思ってなかったので、いろいろ聞きたいことありますし」

「大妖怪な」

「えっと、芙蓉さんはいつごろから妖怪を?」

「いつごろから? まあ、もう数千年は大妖怪をやっておるな」

「数千年?!」

「じゃが、ここ最近はずっと眠っておってな。つい先ほど目覚めたばかりなんじゃよ」

「あ、つまり封印されてたみたいなやつですか?」

はおらん。自らのじゃ。ちと厄介な人間がおっての。さすがにもう寿命で死んだじゃろう。ああいう手合いは逃げ切るのが一番じゃ」

「すごいですね……芙蓉さん、本当に大妖怪じゃないですか」

「そうじゃろ」

「それで……あれ? 今、隣の部屋にいらっしゃるんですか?」

「まあ、居候のようなものじゃな」

「たしか、伊藤優子さんですよね。女子大生の」

「知っておるのか」

「隣ですから」

「目覚めて初めて逢うたのがあやつでの。あやつを従え、足掛かりとして再び人の世に猛威を振るおうかと考えておる」

「国とか傾けちゃうんですか?」

「傾けるぞ。すっごい傾けるぞ。悪虐のかぎりを尽くすぞ」

「いいですねえ。応援してます」


 滅三川は興奮するとよく揺れるらしい。見ていて危なっかしい。


「そうだ、なにか困ったことありませんか? できれば助けになりたいので」

「困ったことか? …………いや、特にはないな」

「なんでもいいですよ? 僕、幽霊で暇ですから」

「そうじゃ、別に困っていることとは特に関係ないんじゃが……。滅三川よ、おぬしはいつごろから幽霊をやっておる?」

「いつ死んだのか、ということですか?」

「そうじゃな」

「うーん、それも正確な日付は思い出せないんですが……わりと最近だとは思いますよ。優子さんの生活を見るかぎり、特に目新しいものはないので」

「なに、覗いておるのか?」

「たまにですよ」

「それでだ。この屋敷はまんそん? とかいうらしいが……」

「あ、やっぱりそのへんですよね。現代は見慣れないものばかりでしょう」

「別に困ってはおらん」

「えーっと、なんていえばいいんですかね。賃貸住宅……長屋っていえばわかります? 芙蓉さんの時代にはあったのかな……」

「よいよい。だいたいは察せてはおるからの。たしかに初めて見るものだが、人の営みなどまあ大して変わらんものよ。数千年にわたって見てきたからな」

「なるほど……さすがです。昔の人が現代にタイムスリップしてあたふたするってフィクションだと定番ですけど、現実だとそうでもないんですね」

「人ではないからな」


 ふふん、と鼻を鳴らす。今世の事情について聞いておこうと思っていたが、考えてみれば特に必要のないことだった。彼女はすでに独力で扉を開けることさえできるのだ。


「あ、もう一つあったんですけど」

「なんじゃ」

「九尾……とおっしゃってましたよね」

「ああ」

「一尾しかありませんけど」

「ああ……」

「なんでです?」

「なんでじゃろ……」


 頭を抱える。それこそが、彼女にとって目下最大の問題であった。


「というか、九尾ってことはあれですよね。白面金毛の……」

「ぬ。知っておるのか」

「やっぱり……! ええ、有名ですから」

「そうか。有名か。かーっ! それは困ったのう。やはり正体は隠さねばならんか。これだけ人の世が変わり映えしてもわしの伝説は残ってしまっておるとはのー!」

「でもまあ、事実だと信じてる人はいないと思いますよ」

「なに?」

「僕も驚いてますから。てっきりおとぎ話かと……」

「どういうことじゃ? わしの神通力があまりにおそろしすぎて偽りだと考えねば人は正気を保てなくなったということか?」

「いえ……なんというか、その……妖怪とか幽霊とかが、そもそも見えなくて、存在しないものだと思われているというか……」

「わしもおぬしもここにおるが?」

「そうなんですけど、いてもいなくても問題ないからというか……」

「????」


 滅三川の話は理解に苦しむものだった。曰く、「科学的思考の普及によって妖怪が駆逐された」だの、「照明の普及によって夜の闇が失われたから」だの、要領を得ない説明が続いた。

 たしかに、月もないのに夜道は照らされ、屋敷マンションの内は昼のように明るい。夜に対する人間の恐怖心はそのために薄れている。要約すればそんな話だった。


「人間の恐怖が薄れると……わしらの存在も薄れるのか? そういうもんじゃったのか?!」

「さあ……。そういうものなのかもしれません」

「わしの尾が一本しかないのも……そのせいなのか?!」

「さあ……。そういうものなんですか?」


 芙蓉が、かつて「玉藻の前」と呼ばれていた時代――すなわち平安時代。

 怨霊や物の怪は現実の恐怖だった。疫病や天変地異のたびに人々は怯えていた。その恐怖は遷都の決定にすら影響を及ぼすほどのものだった。

 そして彼女は、時代を知らない。

 ゆえに、人々の抱く恐怖というものが自らにどのような影響を及ぼすかなど考えたこともなかった。


(ふん。ならば思い出させてやればよいだけじゃ。大妖怪わしが、どれほど怖ろしいものであったかをな)

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