2.ロリババアと幽霊部屋
(ね、眠れん)
それもそのはず、何百年もの眠りからの目覚めである。さらには、慣れぬこの時代の情報を叩き込まれて興奮しきっている。そして、もとより彼女は夜行性だ。
多くの土地と時代を渡り、類まれなる博識で知識人を圧倒してきた自負があった。だが、今は久方ぶりに無明のなかにいる。四方八方を未知に囲まれている。ただし、あくまで「久方」である。経験がないわけではない。この国へ渡ってきた当初もわからぬことばかりだった。今回も、海こそ越えてはいないが、時を大きく越えた。
焦ることはない。身を潜めるのだ。好機を伺い、待つことには慣れている。
そんなことをぐるぐると考えていたから、よりいっそう眠りは遠ざかるばかりだった。それだけではない。
ドン、と。壁越しに叩くような音が鳴り響いていたのだ。
(やかましいの~……)
見れば、「ベッド」のうえの優子も寝返りをうち、唸りながら眠れていない様子だ。
この音はなにか。不知は高い洞察力で補う。おそらく、隣にも部屋があるのだ。この部屋に入る直前、似たような鉄の扉が並んでいるのを見た。この部屋に伊藤優子が住むように、隣にも誰かが住んでいると考えられる。
(なぜ文句を言わん? 身分が低いのか?)
事情はわからぬ。が、迷惑には違いない。訪ねて妖術をちらつかせて脅せば静かになるだろう。大妖怪の眠りを妨げたことを後悔させねばならない。どうせ眠れぬのだから余興のようなものだ。
(さて)
さっそく躓く。玄関から出て隣の部屋を訪ねようと思ったが、その玄関が曲者だ。扉の開け方がわからない。優子が開けるとき、突起のようなものを掴むところまでは見えていたが、いざ自分で実践となるとなにもわからなかった。
(仕方ない)
優子に幻術をかけて開けさせる。微睡んでいる状態が一番効きやすい。優子からすれば眠りかけていたところを起こされた形になるが、夢見心地で記憶に残ることはない。
「でかした。おぬしはもう眠るといい」
「むにゃ……」
と、寝ぼけ眼で優子はベッドに戻る。
そして、芙蓉は廊下に一人立つ。ここへ来たときは茫然としていたが、改めて部屋の外に出てみると奇怪な光景といわざるをえない。長い廊下に似たような扉が六つほど並んでいる。各々の扉の先に部屋があるとすれば、ずいぶんと大きな屋敷だ。
(左隣の部屋じゃったかの)
膨大な経験と高度な知能によって、隣もその隣の部屋も似たような構造だろうと類推できた。扉の開け方も同じだろう。そしてすでに、扉を開ける様子は二度も見ている。
「おい。入るぞ」
当然ながら、彼女にノックの習慣はない。インターフォンなど知る由もない。いるであろう部屋主に声をかけたが返事はなかった。であれば、勝手に入るまでだ。が。
(なに? この突起を掴んで……引くのではないのか?!)
背が低く、後ろからであったので、実はよく見えていなかったのだ。
(ん? んん? んんん~??)
ドアノブを掴んでガチャガチャするも、二進も三進もいかない。重そうな扉だ。あるいは力が足りないだけか。いかに幼子の体躯とはいえ、女である優子とそこまでの差があるとは思えなかった。試しに全力で引いてみるが、びくともしない。
(もう一度優子を起こして開けさせるか? いや……)
芙蓉にも矜持がある。
(人間に開けられて、わしに開けられぬはずはない)
ちなみに、鍵がかかっているわけではない。ドアノブを回すという発想に至れていないだけである。
そう、鍵がかかっていないのだ。空き部屋であるにせよないにせよ、現代人にとって部屋に鍵をかけることは常識だ。にもかかわらず、なぜか無防備にも鍵がかかっていない! その奇異なる状況は不安を誘う。開くからといって入っていいのか。それは恐怖だ。そのはずだった。
だが彼女は、五分以上にわたりその前段階で足踏みしていた。
「ん? おお? 回るぞ。この突起、回るではないか!」
試行錯誤を続けるうちに、ついに彼女は辿り着く。
「いや回るからなんだというんじゃ」
が、回しながら引くところまでは至らない!
大妖怪は頭を抱えた。破壊して突破してもいいが、不用意に術を頼りたくはなかったし、正攻法があるはずである。
長い時間が経った。ついにはなんらかの意思が痺れを切らしたのか、扉は不快な金属音を鳴らしながら、ひとりでに小さく開いた……。
「ん? なんじゃ、待てば勝手に開く類じゃったのか」
おそるべき怪現象も、無知なる大妖怪には届かない。さっきも見た(エレベーターとマンション入り口の自動ドア)のでそのようなものなのだろうと、彼女はさらりと流した。二度も三度も同じもので驚くほど未熟ではないのである。
一度開けば、あとは彼女の考えた通りに突起を掴んで引けばよい。彼女は玄関へと足を踏み入れた。
(やはりな。構造自体は優子の部屋と同じか)
読みは完璧に当たっていた。未知なる環境に放り込まれてわずか数時間とは思えない適応能力であった。さらに類推を働かせ、優子の部屋も開いた直後は薄暗かったことを思い出す。なんらかの操作によって優子は部屋に明かりを灯したのだ。
(まあ、わしにとってはこの程度の闇は問題ではないがの)
わからなかったから諦めたのではない。必要ないことに労を割くまでもないだけである。
さて、現代人にわかりやすくいえば、間取りは1K。キッチンスペース、バスルーム、洋室からなる簡素な構造だ。入って左手にキッチン、右手にトイレとバスルームがある。正面には扉があり、洋室がある。空き部屋であるため家具や食器、衣類などの生活用品は一切なく、閑散としている。
「おい。入ったぞ」
ただし、彼女は部屋主がいる前提で文句を言いに来ていた。いるはずの部屋主に声をかける。それでも、知識はなくとも生活感のなさには薄々気づく。構造は優子の部屋と同じだが、内装はずいぶん様子が異なっていた。
薄ら寒い、青黒い雰囲気。闇がぽっかりと口を開けているかのようだった。不気味なまでの静けさに、裸足の足音すらが響いて聞こえた。
ドン! 扉の向こうで音がする。思わずびくりと硬直する。訪問者を迎えるでもなく、部屋主は騒音を鳴らし続けている。返事のつもりなら不躾極まりない態度である。
「まったく。どうなっておるんじゃ。この音はなんじゃ? 静かにせい」
やはり返事はない。こうなれば、上がり込んで直接顔を見るほかない。
が、またしても彼女の前に扉が立ちはだかる。今度はレバータイプだ。
(なに? 掴んで、引く……のではないのか?!)
扉には二本のスリットが入り、磨りガラスがはめられている。つまり、朧げに向こう側が窺えるようになっている。扉が開かないので彼女は少し様子を見ることにした。
ぎぃぃ……となにか軋む音が鳴り、ドン! と壁を叩く音がする。磨りガラス越しに動く影も見える。たしかに、誰かがいる。この距離で声をかけて気づかないことはありえない。開かぬなら、開けさせればよいのだ。
「客人じゃぞ。開けんか」
もちろん鍵などかかっていない。レバーを下げるという発想に至れていないだけである。アフォーダンスなどという言葉もあるが、まったく無知の状態からでは正しい操作方法に至るのは難しいというのが実情だ。決して彼女が人一倍鈍いということではない。
「ん? おお? 下がるぞ。この突起、下がるではないか!」
試行錯誤を続けるうちに、ついに彼女は辿り着く。
「いや下がるからなんだというんじゃ」
が、下げながら引くところまでは至らない!
「ぬ! いやまさか……!」
下げながら引く。そのあまりに複雑な工程に彼女は独力で辿り着いた。並外れた知性のなせる業である。仮に人間が同じ状況に放り込まれていたならば、数日は立ち往生し、終いには餓死していただろう。大妖怪である彼女はあらゆる能力で人間を遥かに凌ぐのだ。未知なる機構の扉一つ開けることなど造作もないことであった。
「ん?」
そうして、ゆっくりと扉を開く。彼女は部屋へ足を踏み入れる。
だが、無人である。家具の一つもない殺風景である。カーテンすらかかっていない。どこかへ隠れたのかと考えたが、隠れるような場所も見当たらなかった。
気になったのは、奥に見える透明な板である。そして、そのさらに奥に見える外の風景、つまりはバルコニーだ。ちなみに彼女の背丈では塀が目隠しになり、空しか見えない。下方が見えていればまた反応も違っていただろう。
ガラス戸の前まで歩み寄って覗きこむ。コンコン、と叩いたりして質感や硬度を確かめる。取っ手の存在から引き戸の一種であることを看破したが、動かない。先の扉のように下げたり回したりといった機構も見当たらない。しかし、それでも……クレセント錠の存在と仕組みに気づくのは時間の問題に思われた。
一方、目の前のガラス戸に気をとられ、右側の壁に大きな染みがあったことには気づいていなかった。そして、この部屋に入ってきた本来の目的も忘れつつあった。
ぎぃぃ……と、なにかの軋む音が、背後から聞こえる。
ドン! 壁を叩く音が大きく鳴り響く。
「ぬおわぁっ?!!?」
振り向くと、そこには。
天井から首を吊る男の影が、揺れていた。
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