ロリババアVS現代怪異
饗庭淵
1.ロリババアと女子大生
二〇二二年三月四日、二二時。
九尾の狐が退治され、石になった伝説から約八百八十年。
栃木県那須町にあるその石――殺生石が割れた。
そんな事件と関係あるのかないのか、同日同時刻。
ある街中の神社境内で、彼女は目覚めた。
(ん。ずいぶんと長く眠っておった気がするの)
夜、人気のない神社であるのが幸いだった。前日が新月であり、月明かりもないに等しい。目覚めたばかりの一糸纏わぬあられない姿は闇にすっかり溶けていた。
縦長の瞳孔を開き、周囲の状況を確認する。
冷たい土と石畳。背後には社殿。手前には鳥居が見える。小さな神社であるらしい。参道の傍には樹齢百年ほどのクスノキが聳えていた。
(ん~? ずいぶんと若い木じゃのう~?)
歩み寄り、樹皮を撫でる。幹の太さのわりには高く見えた。というより、神社全体が彼女にとっては大きめに見える。長い眠りから目覚めたばかりでまだ頭がぼやけているのかもしれない。
風が吹く。気温は6℃。肌寒い季節だ。全裸であるならなおさらである。だが、彼女にとっては特に気にするところではない。狐火をもって暖を取ればよいだけだからだ。
ただし、そのありさまは――人間にとっては目を疑う異常事態である。
「え、あれ? 誰かいるの?」
(ぬ。人間か)
聞こえたのは女の声である。男であれば適当に誑かし籠絡し骨の髄まで搾り尽くしてやるところだが、いずれにせよ彼女にとって人間は「捕食」対象だ。
「え?! ちょ、どうしたのその格好!」
どうしたのその格好、といいたいのは彼女も同じであった。その女は見慣れぬ衣に身を包んでいた。枯葉のような色合いの上着を羽織り、下から覗く脚は肉体の輪郭を浮き彫りにする黒に覆われている。顔には目を覆う朱色の飾りをつけ、狸のように間抜けだ。
(いやそれよりも……なんじゃ、こやつの大きさは)
慌てた様子で女が歩み寄るにつれ、両者の体格差は明らかになっていく。異様に背が高い。彼女の頭が相手の腰あたりに位置していた。まるで幼子と大人ほどの差である。
(いや、まさか)
彼女は自らの両手を眺める。未発達な指関節が見える。自らの顔をぺたぺたと撫でる。卵のような肌に、丸みを帯びた輪郭。見下ろす。地面が近い。胸も極めてなだらかだ。
「な、なな、なんじゃこりゃ?!」
「か、風邪ひくよ! ほら!」
女は上着を脱いで幼子の肩から被せた。体格差のため、その一枚で彼女はすっぽりと覆われてしまった。
「なんじゃ、このありさまは……」
「えっと……名前は? おうちはどこ? ママは?」
女はあたふたと困っている。客観的に見れば全裸の幼女、そんなものと出会えば混乱やむなしだろう。大妖怪である彼女は当然のように人間より早く落ち着きを取り戻した。
「こほん。わしの名は……そうじゃな。いろいろあるが……白――いや、今回は
「芙蓉ちゃん? うーん、とりあえず警察……? かなあ……?」
「で、おぬしは?」
「え?」
「名じゃよ」
「あ、そっか。えっと、伊藤優子。大学生。どしよっか、いったん
「そうじゃな。おぬしの格好を見るかぎり……わしもどれほど眠っていたのか……おそらく、ずいぶんと事情が変わっておるじゃろう。案内せい」
かくして、おそるべき大妖怪・芙蓉と、ただの女子大生・伊藤優子は出会った。
両者ともに未知との出会い。しかし芙蓉は、すぐさま冷静になり堂々とした態度で主導権を握った。さすがは大妖怪というべき貫禄である。
「は? あ? な、なんじゃ? どうなっとる?? なんじゃこれ?? うおう?!」
が、神社から一歩足を踏み出した途端に笑みは崩れた。
異常な速度の箱が、目の前を通り過ぎたからである。
「あやかしか?! わしに挨拶もないのか!?」
それだけではない。右へ左で視線をやる。道は端から端まで石畳に覆われ、照らされている。規則的に並ぶ石柱に光源が付随し、上部には複雑に呪術めいて紐が通されている。遠くに見える無数の建物も異様に高く、異様に角ばっている。古代出雲大社もかくやという高さだ。
「ぬおっ?!」
また箱が通り過ぎる。馬のように速い。一瞬であったが、その姿は牛もなく自走する車のようにも見えた。
「だ、大丈夫?」
思わず腰を抜かし、尻もちをついてしまう。一方、隣の女――伊藤優子に驚く様子はない。おそらくは、これが当たり前の光景なのだ。
「ええい、今は何年じゃ?」
「二〇二二年だけど……」
「二〇二二?! 今上天皇はずいぶん長生きじゃな!?」
「元号なら令和四年だけど……」
「……うむ。令和とな。いやわからん。そういわれても全然わからんな。まずはおぬしの屋敷に案内せい」
威厳のある態度を取り戻す。差し出された手をちょこんと握る。
「私の家、すぐそこだから。ほら、あのマンション」
「まんしょん?」
伊藤優子の話には先ほどからわからぬ語が何度か出ている。というより、わからぬ語ばかりだ。「マンション」とやらも、例に漏れずに未知そのものだ。驚嘆すべきは昼のごとく明るい内部である。神の社と思いきや、ここに住んでいるというのだ。
「これがおぬしの屋敷か? なんとも立派な……ぬおぁ?!」
「わ、なに、どうしたの」
優子が前に踏み出したとき、見えない壁がひとりでに開くのを芙蓉は見逃さなかった。白琉璃どころか氷のように透き通った戸である。見えない壁のあやかしには覚えがあるが、これではまるで人間のいいなりではないか。
「私の部屋、四階だから」
屋内も異質だ。見るものすべてが珍しい。一つ一つ問い質したいが、どれもこれもで狙いが定まらない。そうしているうちに、手を引く優子もまた足を止めていることに気づいた。
「どうした。なにか待っておるのか」
「エレベーターだけど」
と、鈴のような音とともに鉄の扉がひとりでに開く。
「こ、これがおぬしの部屋か? ずいぶん狭いの」
「エレベーターだけど」
理由はまったくわからないが、窓もなければ他に出入り口も見えない
「ぬあっ?! 閉じ込められたぞ!?」
「芙蓉ちゃん、エレベーターに乗ったことないの……?」
一瞬の重圧。まんまと生殺与奪を奪われてしまった。すべてが罠だったのだ。
(いや、閉じ込められたのはこやつも同じ。あるいは、己が身を犠牲にしてまでわしを封じようというのか……?)
おそるべき速度で思考を回しているうちに、再び「チーン」と、先と同じ音が鳴り、扉が開く。閉じ込めるための扉がしばらく間を置いて再び開く無意味に思える挙動であったが、彼女は目を疑った。外の光景が、入ったときとは異なっていたからである。
(あやかしが……人間にいいように使われておる……のか?)
唖然とする。そして、憤りも覚えた。あやかしの誇りは失われているのか?
そのまま手を引かれ、「私の部屋」だと通された。
「ほう、部屋は暗――なばっ?!」
パチン。優子がなにかしたのか、部屋は一瞬で明るくなった。間違いなく妖術だ。それも驚くほど使いこなしている。だが、驚いてばかりでは沽券に関わる。
「ほ、ほう? ほうほう? ほ~う?」
床はやたらツルツルとしてはいるが、木材には違いない。陶器製の白い
「はぁ~、疲れた」
と、伊藤優子は帳台に腰を下ろす。
「えっと、芙蓉ちゃん。お腹空いてない? 大したものはないんだけど、さっき買ってきたのだったら……」
ガサゴソと、先ほどから手に持っていた白い袋からなにかを取り出し、手渡される。
「なんじゃこれは」
「シュークリームだよ」
「食い物なのか?」
「もちろん」
とてもそうは見えなかったが、匂いはする。甘いにおいだ。おそらく唐菓子の一種だろう。問題は、表面を覆うツルツルとした透明な皮である。
「ん~~??」
「袋開けられない?」
いったん取り上げられ、器用な手つきで包みを開く。香ばしいにおいが解き放たれる。おそるおそる一口齧ると、しっとりした生地の食感と甘み、そしてその内からドロリと。
「ぬ、ぬぅぅ?!」
なにかが零れる。妙なにおいはしていたが、異様な甘さだ。ほのかな酸味も混じる。
「な、なんじゃこりゃ……うまっ、うますぎる……」
「よかった。そんなに好きだったんだシュークリーム」
「しゅーくりーむ……?」
味もそうなら名も珍妙だ。気づけば、手にはボロボロのカスだけが残っていた。
「あーも、べちゃべちゃにして……」
と、箱から次々に薄い紙きれを取り出して口の周りを拭かれた。さも当然のように繰り出される妖術の数々に、芙蓉は度肝を抜かれていた。
「それよりも服だよね……いいのあるかな……やっぱ大きすぎるか……どうしよ」
上着の代わりにまたしても見慣れぬ白い着物を着せられたが、やはり袖が余る。
「服か。そうじゃな、忘れておった」
ぽん、と宙返り一つでこの通り。煌びやかな十二単も変化の術で容易く再現できる。どうにも今の世は妖術で溢れているようなのでこの程度では驚かれもしないだろう。たちまち、彼女は赤い着物に身を包んだ。
(うーむ、背丈までは変化できんか)
艶やかな長い黒髪は健在である。だが、幼子のような背格好ではかつてのように宮中に潜り込み権力者を篭絡――とは望めまい。
「え?! なに、どうやったの?? なんで??」
「ん?」
予想に反し、優子は目を丸くしていた。これほど妖術の溢れる世にあって、衣服を再現する術は物珍しいものであるらしい。
「おや~? うっかりしておったの~? わしにとってはなんでもないんじゃが、ちと高等すぎる術だったようじゃの~? 驚かせるつもりはなかったんじゃがの~。わしにとってはなんでもないんじゃがの~」
本当にうっかりしていた。大妖怪としての本性が露見してしまうのはまずい。娘子一人を丸め込むくらい造作もないかもしれないが、正体を晒すのは危険が伴う。
「こほん。いや、気のせいじゃ」
「気のせい?」
「そう、気のせいじゃ。わしは初めから服を着ておった」
「そうだっけ?」
「考えてもみい。夜道に童女が全裸でいるなどあるはずがあるまい」
「そうかも」
「そう、気のせいじゃ」
「私の服は?」
変化の術で巻き込まれて消えてしまった。覆水盆に返らず。
なんにせよ、巧みな話術とわずかな幻術を交えて誤魔化すことはできた。伊藤優子にとって、芙蓉はただの女の子だ。実は飲み会の帰りで酒が入っていたことも功を奏した。
「もう遅いし、寝よっか。芙蓉ちゃんどうする? ベッドで寝る?」
「べっど……?」
と、指し示されたのは妙に高い帳台である。
「な、なにゆえそのような高台で眠るのじゃ! 落ちたらあぶないではないか!」
「ん~、じゃあそのへんでいい? 布団は出すから」
というより、永い眠りから目覚めたばかりですっかり醒めていた。彼女にとってはむしろ夜が本領だ。だが、慌てることもない。今世の事情が察せぬ以上、現時人の案内を伴う方が賢明だ。人の世を蝕むのは、それからでいい。
「じゃ、電気消すよー」
「ぬあにっ?!」
はたして、伊藤優子はこの異常事態をどのように解釈したか。
「解釈を拒んだ」というのが正確なところだ。思考を放棄し、眠りに逃げた。疲れているから、お酒が入っているからと、ひとまず明日、明日にでも警察に行こうと心に決めて、眠りにつく。
だが、その眠りすらも妨げられる。日に日にその音と気配は大きくなっていく。ここ最近はずっと、ろくに眠れていない。
誰もいないはずの隣室から、毎夜、壁を叩く音がする。
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