24 溶ける(後)

『ああ、そうだ。紅蓮。歌を一つ覚えたんだ』

『歌? おまえが?』


 白蘭が人前で歌を歌うことを好まないことを知っている紅蓮は、怪訝そうに眉をひそめた。


『うん。この間、草原を吹き渡る風のような歌を歌ってほしいって言ったら、翠菻が歌を歌ってくれて。君にも聞かせてあげたいと思ったから、翠菻に教えてもらったんだ』

『ほう。おまえが俺にそんなことを言うのは初めてだな。ぜひ聴かせてもらおうか』

『……周りに聞こえないかな?』


 以前、神官たちに立ち聞きをされた苦い経験のある白蘭は、とたんに心配になって辺りを見回した。


『おまえに文句をつけにくるような命知らずはここにはいまい』

『でも、迷惑だろう?』

『おまえは自分の部屋にしか結界を張れないのか?』


 呆れたように紅蓮に笑われて、白蘭は菫色の瞳を見張った。


『ああ、そうか』

『まったく、おまえは……頭がいいのか悪いのか、さっぱりわからんな』

『誰にでもうっかりすることはあるだろう』


 白蘭は唇を尖らせて、露台から室内に戻った。

 結界を張る範囲はなるべく狭いほうがいい。自室のほうは術を使っているから自分がいなくても維持できるが、生身の体で結界を張りつづけるのは、たとえ白蘭でもそれほど楽なことではない。

 紅蓮は躊躇なく寝台の端に腰を下ろすと、どうぞとでもいうように右手を差し出した。


『先に断っておくけど、私に翠菻のような歌声は期待しないでおくれよ』

『言わずもがなだ。俺は別に翠菻の歌声を聴きたいわけではない。おまえが俺に聴かせたいと思った歌を聴きたいんだ』


 紅蓮のこういうところが白蘭を酔わせてやまない。白蘭ははにかむように笑うと、音だけを遮断する結界で部屋全体を覆い、翠菻から教わって完璧に歌えるようになったあの歌を歌いはじめた。

 天人族にとって、声を出して歌われる歌は神聖なものである。しかし、夜の空気よりも澄みきった白蘭の歌声に耳を傾けながらも、紅蓮は月の光を浴びて幻のように白く浮かび上がっている彼から決して目を離さなかった。

 その顔には、普段の紅蓮からは考えられないほど恍惚とした笑みが浮かんでいたが、歌うことに集中するために目を閉じていた白蘭がそのことを知ることはなかった。


『どう?』


 歌い終わり、結界を消して目を開けると、紅蓮はもういつもの彼に戻っていた。


『ああ、いい歌だな。確かにあの大地の草原にいるようだった』


 とたんに白蘭は嬉しくなって、紅蓮のそばへ跳んだ。


『君ならすぐにそうわかってくれると思ったよ!』

『そのつもりで翠菻に注文を出したのではないのか?』

『まあ……そうだけど』


 本当にこの男には何から何まで見透かされてしまっているような気がする。それとも、単に自分がわかりやすい性格をしているだけのことだろうか。翠菻にもそのようなことを言われたし。

 少しばかり自己嫌悪に陥っていると、急に紅蓮が白蘭の右手をつかんで、さらに近くへと引き寄せた。


『何? どうしたの?』


 戸惑う白蘭を、紅蓮は静かな笑顔で見上げた。


『白蘭……おまえのすべてを見せてくれないか?』


 どういう意味で言っているのかはすぐにわかった。白蘭はびくりと身を震わせ、狼狽して紅蓮から目をそらせた。


『君……もう知っているって……』

『直接見たことはない。見たいんだ。とても』

『でも……』


 きっと服を脱ぐだけではすまない。それくらいは白蘭にもわかる。覚悟はしていたし、望んでもいたが、本当にその時が訪れると、やはりためらってしまう。男でもかまわないと言ってくれたけれど、やはり男だし。

 白蘭の答えを待ちきれなかったのか、それとも嗜虐心を煽られたのか、紅蓮は意地悪く笑って彼を覗きこんだ。


『自分で脱ぐのが恥ずかしいなら、俺が脱がせてやろうか?』

『そのほうがもっと恥ずかしいよ!』


 白蘭は紅蓮の手を払って、勢いよく振り返った。


『自分で脱ぐよ、脱げばいいんだろう、脱げば!』


 自棄を起こした白蘭は、自ら服を脱ぎはじめた。

 神殿に住まう者は、高位になればなるほど裾長の、紅蓮に言わせれば床掃除をしているようにしか見えない服を着ている。それは白蘭の服も例外ではなかったが、それに加えて、装飾院の優秀な装飾官たちが白蘭様のお召しになる服だからと才能の無駄遣いをしてしまったために、非常に着脱が面倒くさい代物となりはてていた。

 紅蓮に手伝ってもらったほうがよかっただろうかと思いつつも、自分で脱ぐと宣言してしまった以上、今さらそんなことは頼めない。いっそもう破いてしまおうかという衝動に幾度か駆られながら、あとは前で合わせる形の肌着一枚というところまで何とか辿りついた。

 その間、紅蓮は立てた片膝の上に腕と顎を載せ、服を脱ぐのに悪戦苦闘している白蘭を面白そうに眺めていた。そんな紅蓮を見ていると、これは単なる嫌がらせなのではないかと思えてくる。


 ――でも、見たいって言ってるし。ここで断ったら、もう二度と言ってもらえないかもしれないし。


 白蘭は震える指で肌着の紐を解くと、肩からそっと脱ぎ捨てた。


『白蘭』


 呆れたように紅蓮は名前を呼んだ。


『おまえ、何で隠すんだ?』

『だって……』


 弱々しい念波で白蘭は答えた。


『私はまだ〝女〟じゃないから……』


 白蘭は今、一糸も纏わぬ状態になっていたが、頭に生やした翼を大きく広げて、体のほとんどを覆い隠してしまっていた。そうしていると、まるで性別不明の天人のようにも見える。


『先のことはどうでもいい』


 宥めるように紅蓮は笑った。


『俺が見たいのは、今のおまえなんだ、白蘭』


 紅蓮はいつでも今の白蘭を――男の白蘭を受け入れてくれる。「女」でなくてすまないと泣く白蘭を、おまえは悪くないと言ってくれる。

 この男が許婚でよかった。本当によかった。この男以外の男に服を脱げと言われていたら、きっと恥辱のあまり気が狂う。

 白蘭は翼を縮めていつもの頭髪のような状態に戻し、自分の腕を抱いて紅蓮の前に立った。恥ずかしくて、紅蓮の顔は見られなかった。

 しばらくしげしげと白蘭を眺めるような間があって、感嘆するように紅蓮が言った。


『やっぱり、とても綺麗だ』

『そんな……適当なことを言って』


 照れ半分怒り半分でそう詰ると、紅蓮は穏やかに答えた。


『本気だ。おまえはいつでもとても綺麗だ。初めて会ったときから、そう思っていた』


 白蘭は思わず紅蓮を見た。紅蓮の顔は少しだけ赤かった。そういえば、少年時代には紅蓮のこのような表情を何度か見たことがあるような気がする。


『そんなこと……今まで一言も言わなかったくせに』


 つられてこちらも赤面して言い返すと、紅蓮は立ち上がって白蘭の前に立った。


『言ってもよかったのか?』


 すぐにもちろんとうなずこうとしたが、少し考えて首を横に振った。


『やっぱり、言わないでいてくれてよかったかな。君にそんなことを言われていたら、君が私の相手に選ばれてほしいって、毎日願いつづけなければならなかったもの』


 たぶん、それは地獄の日々。紅蓮以外の者は欲しくないと思いながら、紅蓮以外の者を押しつけられるかもしれない恐怖に怯えつづける。


『でも、君はそんな理由で、今まで言わなかったわけじゃないんだろう?』


 紅蓮の緋色の瞳を見つめると、紅蓮は自分の翼を使って白蘭を自分の腕の中へ抱きこんだ。

 裸の胸に直接触れた紅蓮の肌は、火傷しそうなくらい熱かった。


『あの頃は、〝綺麗〟という言葉を知っていても、使い方を知らなかった』


 白蘭の耳許で、熱に浮かされたように紅蓮が囁く。


『ようやくわかったときには、おまえがいつか誰かのものになると知った。それ以来、〝綺麗〟という言葉で人を褒めたことはない。今のが初めてだ』

『紅蓮……』

『おまえの許婚にならなければ、一生明かすつもりはなかった。おまえを好きだということも、本当は誰にもやりたくないと思っていることも』


 気づかなかった。紅蓮がそんなことを考えていたなんて。白蘭が天母となることがわかっていたから、最初から諦めていたなんて。

 自分だったら耐えられるだろうか。紅蓮にまったく気取られることなく、友人として付き合いつづけることができるだろうか。


『それなら、この前の御前会議の後に言ってくれてもよかったのに……』

『正式な発表ではなかったから、あとで取り消されそうで怖かった』

『そんな馬鹿な……それで今日まで黙っていたの?』

『意外と辛かったぞ。言ってもいいのに言えないのは』


 紅蓮は笑い、白蘭の顔にかかる白い羽をそっと払いのけた。


「白蘭。愛している」

「これは夢ではないのかな?」

「夢でもいいだろう。永遠に覚めなければ」

「ではせめて、私がこの言葉を言い終えるまでは覚めないでいてほしい。――紅蓮。私も君を愛している」


 白蘭が言い終えた瞬間、紅蓮の唇が彼の唇を塞ぎ、それ以上声を使って話すことを禁じた。

 白蘭の愛しい太陽は、その夜、彼の身も心も溶かしつくし、その翌朝、全神官を嘆かせた。

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