19 最強(前)
白蘭様がいらっしゃいましたと音楽官の一人に告げられたとき、翠菻は驚倒した。
確かに昨日、面紗の代わりになるような布を後で贈ると言っていたが、まさかその翌日、しかも自ら音楽院まで出向いてくるとは思いもしなかった。
とにかく、彼が待っているという応接の間へと馳せ参じると、今日も麗しい白蘭はいきなり訪ねて申し訳ないと翠菻に詫びた。
『いえ、そんな……御用があれば、こちらからお伺いいたしましたのに』
『そういうわけにはいかないよ。礼をする側が出向くのは当然のことだろう?』
にこやかに白蘭は笑い、小脇に抱えていた白い包みを卓の上に置くと、細い指先で包みを広げた。
『装飾院でいろいろ見せてもらったんだけど、これがいちばん君に似合うかなと思って。服を仕立ててもいいように多めにもらってきたよ』
包みの中から現れたのは、案の定、布の束だった。上品な藤色をしていて、手触りもいい。専門外の翠菻にもすぐに最高級品だとわかった。
『まあ……わざわざ装飾院まで行かれたんですか? ありがとうございます』
感激して翠菻は頭を下げた。確かにあそこなら布は山ほどあるだろうが、神殿にもいくらでもあっただろうに。
自分の使い古しの面紗ごときにこれほど高価なものを返されてしまうと、逆に申し訳なく思ってしまう。白蘭はあの何の変哲もない面紗のどこをそれほど気に入ったのだろうか。
『礼には及ばないよ。こちらこそどうもありがとう』
今日の白蘭はたいへん機嫌がいいようだ。白皙の
いつもなら、何かよいことでもありましたかと訊ねていただろうが、昨日の御前会議のことが頭に残っている翠菻には、どうしてもその言葉を切り出すことはできなかった。
あの後、黒蘆はこの白蘭と守護天将の御名を受けたばかりのあの男にあの話をしたはずだった。それ以外にあの二人だけを残してする話などない。たやすくそう想像できるだけに、昨日黒蘆様からどんなお話があったのですかと問うこともできなかった。
どうせ打撃を受けるのなら、少しでもその日を先延ばししたい。いずれにしろ同じだろうと人は笑うかもしれないが。
『そういえば、白蘭様。あの歌を歌えるようになりたいとおっしゃっていましたね』
布を片づけながら、ふと思い出して話しかけると、ちょうど考えごとをしていたらしい白蘭は、はっと我に返って翠菻を見た。
『あ、うん。君には到底及ばないだろうけど、せめて通して歌えるようになりたいと思って』
『では、もしお時間があれば、今からお教えいたしましょうか? 白蘭様ならきっとすぐに覚えられると思いますから』
『君だって仕事があるんじゃないのかい?』
『望む方に歌をお教えするのも、私の大切な仕事の一つですわ』
自分にできる最高の笑顔を向けると、白蘭は少し考えてから、子供のように笑った。
『じゃあ、お言葉に甘えて教えてもらおうかな。――ここで?』
『いえ。よろしければ私の部屋で。あそこなら周りに声が漏れませんから』
『ああ、それは重要だね』
過去に何か問題でもあったのか、白蘭は真剣な面持ちでうなずいた。
* * *
神官たちの口は、白蘭のことに関するかぎり、黒蘆の身を縛る縄より堅い。
昨夜、とうとう黒蘆が愛しの白蘭と憎き紅蓮に例の件を伝えたことは、神官独自の情報網により、翌日には全神官の知るところとなったが、無論、彼らはそのことを外部に漏らすことはなかったし、自分たちがすでにそのことを知っていることを、最愛の上司に気取られることもなかった。
昨夜の御前会議が終了した後、白蘭が紅蓮と共に姿を消したことも彼らは承知していたが、断腸の思いで見て見ぬふりをした。もしかしたら今夜初めて無断外泊をされるかもしれないと覚悟していたところ、予想に反して数時間後、白蘭がたった一人で帰ってきた。喧嘩別れしたわけではないことは、夢見るように上気した顔を見れば一目瞭然だったが、真っ先に執務室へ行き、翠菻から譲り受けた面紗を大事そうに抱えて自室へ引き上げようとする彼に、いったいどこまで進展されてしまったのですかと訊ねる勇気は誰一人持てなかった。
今のところ、時折ぼんやりすることはあるものの、白蘭は昨日よりははるかに平常時に近い状態で仕事をこなしていた。午後になって翠菻に届け物をしたいという理由で神殿を出ていったが、気を抜くことのできなかった神官たちにとっては有り難い外出だった。恋愛方面以外は勘のいい白蘭に気づかれないように観察するのは、優秀な神官たちにとっても容易なことではなかったのである。
『あの様子だと、まだ……なのでは?』
これまでの観察の結果から、神官たちはそのような結論を出すに至った。
『これは意外でしたね。あの赤猿なら、その日のうちに事に及ぶかと思っていましたが』
『きっとじっくり攻めていく腹づもりなのでしょう。奴が焦る必要はまったくないわけですから』
『ああ、そうですわね……黒蘆様公認の許婚ですものね……邪魔する者は誰もいない……』
『許婚などと言わないでください。まだ正式に発表されていないでしょうが』
『とにかく、今しばらくは白蘭様に気づかれないように全力で見守りましょう。何か動きがあったらすぐに知らせるように。いいですね?』
『はい、神官長様』
おそらく今、神官たちの連帯は、神殿の歴史が始まって以来最強だった。
* * *
音楽院を出た後、白蘭はこのまま神殿に帰ることをためらった。
――否。いま羽を広げたら、神殿ではなく別の場所へ飛んでいってしまいそうで怖かった。昨日、親友から許婚に変わったばかりのあの男のいる場所へ。
一応、白蘭なりのけじめとして、用事がなければ紅蓮を訪ねないようにはしていた。たとえ、その用事が捏造されたものであったとしても。
そうしなければ、自分は際限なく会いにいってしまう。相手にも周りにも、迷惑をかけてしまう。
でも、会いたい。今すぐ会いたい。許婚になったら、ますますこの気持ちが強まってしまった。
できるものなら、自分も軍事院に属して、ずっと紅蓮のそばにいたい。
紅蓮はきっとこんなことを考えたりはしないだろう。自分のほうが何倍も何十倍も紅蓮のことが好きだ。昨日別れた瞬間から、もう会いたくてたまらなくて、翠菻の面紗を抱いて寝た。
そのせいで、また翠菻に対する罪悪感のようなものがぶり返してきて、今日さっそく布を見繕って届けにきたわけだが、神殿の外へ出たのは失敗だったかもしれない。仕事をしていれば何とか気を紛らすこともできたのに。
――せめて同じところで暮らせたらな。
天卓の十三人になれば、神殿に自室を持つことができるが、紅蓮の職業と性格から考えて、そこを生活の拠点にするはずもない。
もし天母などでなかったら、他の一般の天人たちのように、二人きりで暮らすことができたかもしれないのに。――いや、自分が天母でなかったら、紅蓮が許婚になることもなかったのか。ずっと親友でいるのと、どちらのほうがよかっただろう。
深い溜め息を吐き出した白蘭は、羽で飛ばずに歩いて――と言っても、彼は常に地からわずかに浮いている――神殿に帰ることにした。時間はかかるが、その間に頭を冷やすこともできるだろう。
だが、少しばかり歩を進めたところで、白蘭は頭上から念波を受けた。
『白蘭様!』
反射的に顔を上げてみれば、下級神官の一人が空中で静止していた。
腕自体が翼であるこの小柄な神官は、神殿の中で最も飛ぶのが速く、伝令役として重宝がられていた。この神官に回されるはずの仕事もいくらか白蘭は奪い取っていたかもしれない。
『ああ、よかった。まだいらっしゃった』
ほっとしたように呟くと、白蘭の前に降り立ち、膝を折る。
『ああ、君か。いったいどうしたの? 神殿で何かあった?』
のんびりと訊ねた白蘭――これがいつもの彼だった――に、いえ、神殿ではないのですがと神官は言いよどんだ。
『先ほど軍事院から神殿に一報が入りまして。詳細はまだよくわからないのですが、白蘭様にもお知らせしておいたほうがよろしいかと』
『軍事院?』
とたんに白蘭は顔色を変えて神官に詰め寄った。
『内容は!』
『は、はい……それが、蒼芭様が紅蓮様に決闘を申しこんだとのことで……どのような経緯でそうなったかは、まだ確認がとれておりません……』
『決闘?』
思いもしなかった単語を聞いて白蘭は一瞬唖然としたが、すぐに我に返って神官を見すえた。
『その知らせが入ったのはいつ?』
『本当に、つい先ほど……』
『二人は今どこに?』
『練兵場だそうです』
そう聞いたが早いか、白蘭はもう羽を広げて飛び立っていた。
取り残された神官は、もう何も見えなくなった空を見上げながら独りごちた。
『うわあ……俺より速いや』
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