18 白き月(後)

『君の目から見て、私は男に見えるか? 女に見えるか?』

『男だ』


 何の迷いも逡巡もなく紅蓮は言い切った。少しくらい考える間を置いてくれてもいいのにと白蘭は恨みがましく思ったが、紅蓮にとってはその必要もないくらい自明のことなのだろう。そう判断して深い溜め息をついた。


『そうだよ。私の外見は男だよ。それなのに、黒蘆様たちは私に子供を産めと言うんだ。それについて君はどう思う?』

『さあ。今まで子供を産む天人など見たことがないからな。腹の膨れた羽なしの女のようになるのか?』


 紅蓮の答えに白蘭は愕然とした。

 そうなのだ。紅蓮くらいの世代になると、懐胎した天人自体を見たことがない。男女の別はわかっても、妊娠は女だけに起こる現象だと知識としては知っていても、身近に例がないので実感が持てない。

 白蘭は古い記録を熱心に調べていたために、妊娠・出産するのは女だけだ――だから、自分はふさわしくない――とよく知っていたが、一般人にとっては、男だろうが女だろうが、どちらでもいいことなのだった。実際そのようにして生まれてくる天人は、今や一人もいないのだから。


 ――これは盲点だった……


 やはり当事者とそれ以外とでは、まったく物の見方が違ってくるものらしい。考えこむ白蘭を紅蓮は訝しげに眺めていたが、ふいに白蘭の腕を引いて、背中から抱きしめた。


『紅蓮?』


 狼狽して逃れようとするが、紅蓮の逞しい腕はびくともしない。いや、本気で抗えば逃げ出せたかもしれないが、白蘭はあえてそうしなかった。紅蓮に抱きしめられるのは、手を繋ぎあうこと以上に嬉しいことだったから。


『こうして何度も触れているのに、今さら男か女かもないだろう』


 紅蓮は白蘭の耳許で笑い、服の上から白蘭の胸を撫で回した。


『紅蓮!』


 白蘭は真っ赤になって紅蓮の手を外そうとしたが、逆に力を入れられて、まったく動かせなくなってしまった。

 今は常に口惜しく思う平坦な胸の感触よりも、紅蓮に触れられたとたん激しくなった鼓動を知られたくなくて、白蘭は身も世もなくうろたえた。


『紅蓮……頼むから、離して……』

『白蘭。おまえは何が嫌だ?』


 白蘭の懇願を無視して、紅蓮は背後から囁いた。


『黒蘆に言われるまま、子供を産まなければならないことか? 自分の伴侶に俺が選ばれたことか?』


 白蘭は弱々しく首を横に振った。確かに前者については反感を持っていたが、それに逆らおうとまでは考えていなかったし、後者に関してはまるで逆だった。

 最初こそ見知らぬ男のほうがましだったと思ったが、今となっては選ばれたのがこの男で本当によかったと思っている。この胸に触れる手が紅蓮のものでなかったら、嫌悪のあまり即座に吹き飛ばしていただろう。


『では、何が嫌なんだ?』

『……私の体が、男なのが嫌だ……』


 そう。何もかもそれが根本にあった。外見も女でさえあったなら、何一つ悩むことなく紅蓮を伴侶とすることができただろう。ただし、その場合、少年時代の紅蓮の無理難題にどこまでついていけていたかわからないが。


『それもおまえのせいではないだろう』


 白蘭ではない紅蓮には、白蘭の劣等感の出所はまったくわからないようだ。呆れ果てたように嘆息する。


『そうだけど……でも、君は嫌だろう?』


 おそるおそるそう訊くと、紅蓮は白蘭が振り返らずにはいられないような返答をした。


『どうして?』


 緋色の髪に半ば隠された紅蓮の顔は、とぼけているわけでも何でもなく、本気でなぜそんなことを訊くのかわからないと言っていた。


『どうしてって……』


 そうもまっすぐに訊き返されると、白蘭のほうが答えに困ってしまう。抱くなら男より女のほうがいいだろうなんて、どんな顔をして言えばいいのだ。


『男だろうが女だろうが、白蘭は白蘭だろう。男なのがなぜいけない?』


 白蘭の戸惑いを知ってか知らずか、さらに紅蓮は畳みかける。言われてみればそのとおりなのだが、白蘭にはどうしても紅蓮の言うように開き直ることができない。


『君は自分の伴侶が、自分と同じ男の体をしていてもいいのかい?』


 冷ややかにそう言ってやると、さすがに紅蓮は考えこんだが、返ってきた答えはまたしても白蘭の予想を超えていた。


『それはかまわないが、俺と同じなら、おまえはどうやって子供を産むんだ?』


 ――かまわないのか!

 白蘭はまずそこに驚かされた。常々凡人ではないと思ってはいたが、こういう意味でも超越しているとは思わなかった。できれば知りたくなかった一面だった。


『ずっと不思議に思ってはいたんだ。男のおまえがどうやって子供を産むのだろうと。おまえにはもちろん、周りにも訊きにくかったから、今までそのままにしていた。でも、こうなったからには、もう訊いてもいいだろう?』


 相変わらず背中から白蘭を抱きしめたまま飄々と言う。その調子に白蘭はつい笑ってしまった。あれほど引け目を感じていたのが馬鹿馬鹿しいとさえ思えてくる。


『紅蓮。……違うんだ』

『何が?』

『私は、正確には君と同じではないんだよ。男の体に女の器官を無理やり詰めこんであるんだそうだ。ようするに、半陰陽なんだ、私は』

『なるほど』


 あっさり紅蓮はうなずいたが、すぐにこう問い返した。


『だが、それならおまえは男ではないだろう。なぜそんなにも男の体をしていると卑下するんだ?』

『無理やり詰めこんであるって言っただろう。そのせいなのか、私はまだ〝女〟じゃないんだ。まだ初潮が……君、わかる?』


 天人は個体差が大きいため、自らの体のことについては一律に教育することができない。そのため、おのおの医療院まで出向き、そこで各人に合わせた指導を受けることになっていた。ゆえに、この方面に関しては、紅蓮が白蘭と同じ知識を持っているかわからないのである。


『まあ……一通りは』


 そう答える紅蓮の顔は、面映ゆいのか草原のほうを向いていた。


『医療院にも、いつ私が〝女〟になるかわからないそうだよ。だから、それまでは相手も決められないだろうと読んでいたんだけど……まったく不意を突かれたよ』

『年寄りはせっかちなんだ。先がないからな』

『また君は、そんな悪口を言って』


 呆れて笑うが、内心は同感だ。

 気がつけば、紅蓮は草原から白蘭に目を戻していた。昼間は猛々しい瞳が、月明かりの下ではひどく優しげに見える。

 御前会議が終わるまでは親友だったこの男は、今や白蘭の未来の伴侶となってしまった。たぶん、白蘭がまだ「女」ではない間は、許婚ということになるのだろう。守護天将の御名を持つ、天人族最強の許婚。そんな男の子供を自分が産めるのは、いったいいつの日のことだろう。

 そこまで考えて、白蘭は我に返り赤面した。つい先ほどまで、紅蓮に自分はふさわしくないと悩んでいたのに、もうそんなことを考えているのか。

 それとも、これもすでに遺伝子に組みこまれてしまっていることなのだろうか。好きな男の子供を産みたいという、身のうちから湧き上がるような強い欲求。今「女」でないことをこれほど残念に思ったことはない。


『紅蓮……』

『何だ?』

『君は本当に、こんな胸をした伴侶でいいのかい?』


 紅蓮の大きな手は未だ白蘭の胸にあてがわれたままだ。だが、心臓はもう緩やかな鼓動を刻んでいる。紅蓮に触れられているとこんなに安心できるなんて初めて知った。


『かまわないと言っただろう』


 呆れたようにそう言った後、紅蓮はぼそりと付け加えた。


『下がついていてもな』


 白蘭は真っ赤になって、反射的に紅蓮の胸を殴った。


『白蘭……さすがに効くぞ、これは』


 紅蓮は顔はしかめたが、白蘭の体から手は離さなかった。


『君には羞恥心というものがないのか』

『何が羞恥心だ。おまえが散々自分で男の体と連呼していたのだろうが。あいにく、おまえにわざわざ宣言してもらわなくとも、おまえが男の体をしていることは承知している。いったい今までどれだけ付き合ってきたと思っているんだ。おまえを抱きしめたときに偶然触れたこともあったし、薄物一枚で水遊びをしたとき、透けて見えていたときもあったぞ』

『紅蓮……君を殴ってもいいかな?』

『今度は断ってから殴ってくれるのか。進歩したな』


 にやにや笑っている紅蓮を、白蘭は赤い顔で睨みつけていたが、ふっと溜め息をついて苦笑いした。

 今のは〝気にするな〟という紅蓮なりの感情表現なのだろう。いろいろなところが引っかかるが、紅蓮が白蘭のありのままを受け入れようとしていることは事実だった。今はもうそれだけでいい。


『殴る気がなくなったのなら、そろそろ戻らないか』


 伸びをするように、紅蓮は背中の羽を広げた。


『ここにいると、やはり体が重い』

『殴る気がなくなったわけではないけど、戻るのには賛成するよ』


 白蘭は先に立ち上がり、紅蓮に右手を差し伸べた。


『疲れたのなら、私が手を引いていってあげようか?』

『有り難いお申し出だが、仮にも守護天将がそのような無様な帰り方をするわけにはいかないな』


 紅蓮は口角を上げると、白蘭の右手をつかんで立ち上がった。と、いきなり白蘭を横抱きにし、羽を羽ばたかせて大地を発った。


『紅蓮!』


 あわてて叫ぶ白蘭を、紅蓮は笑いながらますます強く抱きしめた。


『しっかり捕まっていろ。落ちるぞ』


 言ったと同時に、紅蓮は速度を上げ、闇の中を飛翔した。


 ――まったくこの男は……


 呆れながらも、こみ上げてくる笑いを抑えることができない。

 頭上では真白い月が輝いていた。美しさではかなわない。でも。

 白蘭は紅蓮の厚い胸に顔を埋めて呟いた。


 ――月よ、羨め。私は今、太陽に抱かれている。

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