07 約束(後)
『最近、機嫌が悪いな』
久しぶりに大地に降りたときのことだった。いつもの木の下で並んで座っていると、ふと紅蓮がそう言った。
初めてここを訪れたときよりも、紅蓮は髪も背もずっと伸び、体の線も太くなった。それほど遠くない先、紅蓮は少年から青年に変わってしまうだろう。
『君が無茶ばかり言うからだよ』
紅蓮が自分のことを気にかけていたと知って嬉しかったが、不機嫌の理由を説明するわけにもいかず、白蘭はごまかすためにそう答えた。
紅蓮はばつが悪そうな顔をしたが、だっておまえできるじゃないかと返した。
『君がやれって言うから』
『俺は剣を習えとは言わなかったぞ』
『でも、やめろとも言わなかった。何もしないでいるのは退屈だったんだよ。君にはきっとわからなかっただろうけど』
『悪かった』
珍しいことに、紅蓮は素直に謝った。白蘭は思わず彼の顔をまじまじと見た。
『何だよ?』
『いや……君が謝ることなんて滅多にないから。熱でもあるんじゃないか?』
白蘭は白い手を伸ばして、紅蓮の額に当てた。自分より少し高い体温。
『熱はあるだろう。死体じゃあるまいし』
紅蓮は苦笑すると、白蘭の手をつかみ、自分の額からそっと外した。
外見だけでなく、中身も変わってきていると感じるのはこういうときだ。昔だったら、何をするんだとでも言って、白蘭の手を乱暴に振り払っていたのではないかと思う。
白蘭を連れ回すのは相変わらずだが、昔ほど強引ではなくなったような気がする。それだけ大人になったということなのか。いいことなのかもしれないが、白蘭には寂しく思えた。
『どうしたの?』
紅蓮が自分の手を握ったまま離さないので、白蘭は怪訝に思って訊ねた。
『おまえの手……柔らかいな』
まるで初めて触れたかのようにしみじみと言う。昔さんざん握っていたじゃないかと答えようとして、そういえば近頃は手を繋ぐことがなくなっていたことに気がついた。紅蓮に手を引かれなくてもついていくことができるようになってから、手に触れる機会も少なくなっていた。
『君と比べたら、きっと誰の手も柔らかく感じるよ』
紅蓮の手は大きくて、剣を持つ右手には、兵士の手にもある
『そうか? おまえほど柔らかい手にはまだ触れたことがないな』
そう答えて、白蘭から手を離す。
もう少し握っていてほしかったと考えて、すぐにそんな自分に驚き、白蘭は狼狽して青い空に目をやった。
そんな白蘭を不審に思ったのか、紅蓮はしばらく考えるような間を置いてから、白蘭と彼の名を呼んだ。
『な、何?』
まだ動揺が収まっていなかったので、念波が不安定になってしまった。紅蓮は少しだけ眉をひそめてから、おまえは学問所を出たら神殿で神官になるのかと言った。
紅蓮が進路のことを訊ねてきたのはこれが初めてだった。白蘭に自分の進路希望を問われて答えたとき、紅蓮は翠菻とは違って白蘭に訊ね返しはしなかったのだ。つまり、彼はもうわかっているということなのだろうと思っていたが、そういうわけでもなかったようだ。それとも、これはただの再確認なのだろうか。
『たぶん……まだはっきりとは言われていないけど、そうなるだろうと思う……』
神官たちにしてみれば、きっと当然のことだと思っているから、あえて進路のことについては触れてこないのだ。だが、もし自分が軍事院に行きたいと言ったらどうするのだろう。学問所に行きたいと言ったときのように反対されることは目に見えているが、はたして今度も黒蘆は許してくれるだろうか。
『やっぱりそうか』
どうやら再確認だったようだ。しかし、どうして今。
続く言葉を待って紅蓮を見つめていると、その視線に気づいた紅蓮が、なぜか照れくさそうに緋色の目をそらせた。
『神官っていうのは、休日はないのか?』
まったく予想外の問いだった。白蘭は面食らったが、訊かれたことには簡潔に答えた。
『あるよ。神官は天恵の樹じゃないもの』
『休日には、自由に外を出歩けるのか?』
『うん。事前に外出願を出さないといけないけど、戻る時間さえ守れば大丈夫』
問われるままに答えながら、紅蓮は白蘭が神殿勤めになっても会えるかどうかを知りたいのだということに、ようやく思い至った。
考えてみれば、自分が神官になったとしても、今までのように毎日は無理だろうが、まったく紅蓮と会えなくなるわけではないのだ。なぜ今までこんな単純なことに気づかなかったのだろう。学問所を出たらもう紅蓮には会えないと頭から思いこんでいた。
『そうか』
紅蓮はうなずくと、再び白蘭が想像もしなかったことを言い出した。
『天卓の十三人は、神殿を自由に出入りできるんだよな?』
今度は何も答えられなかった。そんな白蘭に、紅蓮はかつてここへ彼を誘ったときのようににやりと笑った。
『ということは、天卓の十三人になれば、中庭から忍びこまなくても、正面から堂々とおまえに会いに行けるというわけだ』
『紅蓮……君、本気で?』
『蒼芭がなれるのに、俺がなれない道理があるか』
まったく根拠のない子供じみた理屈だったが、いかにもこの少年らしいと白蘭は思った。紅蓮のこういうところが白蘭は好きだ。この少年の他に、誰が本気で自分に会うために天卓の十三人になると言ってくれるだろうか。
『紅蓮!』
嬉しさのあまり、白蘭は紅蓮の首に抱きついた。紅蓮はあわてたようだったが、自分より華奢な白蘭の背中に腕を回すと、強く抱きしめてくれた。
紅蓮の息が頭の羽にかかってくすぐったかったが、今は彼から離れたくなくて、白蘭は目を閉じ、じっと堪えた。
『前からずっと思ってたけど……』
白蘭を抱いたまま、紅蓮が呟いた。
『おまえ、いい匂いがするな』
『君は太陽の匂いがするよ』
『……汗くさいのか?』
白蘭は笑ったまま、肯定も否定もしなかった。
ただ、心の中で僕は好きだよと答えた。
この先、何十年何百年何千年経っても。この思いは変わらない。
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