08 賭けにならない

 智天・白蘭は、いつも空から突然やってくる。

 その羽音に誰よりも早く気づくのは、緋色の髪をした師団長・紅蓮で、普段は険しい表情をしていることの多い精悍な顔をかすかに綻ばせる。


『今、大丈夫かな?』


 純白の羽を閉じる様も美しい天人は、呆けたように見つめることしかできない若い兵士たちに、艶やかな笑みを向ける。

 たいていは彼らが答える前に師団長が飛んできて、緋色の目を細めながら、学問所時代からの親友にどうしたと訊ねる。


『ん、お使い』


 白蘭ははにかむように笑うと、青い神官服の懐から水晶玉を取り出し、紅蓮に手渡した。


『黒蘆様からの手紙だよ。君に直接渡すようにって』


 それを受け取ってから、紅蓮は呆れたように彼を見やった。


『これは下級神官のする仕事だろう。おまえがこんなことをしていいのか』

『たまには私も羽を伸ばしたいんだ』

『また神官どもに捜されても知らないぞ』


 そう嫌味を言いながらも、紅蓮は訓練中の兵士たちに休憩を命じる。

 白蘭が訪れるといつもそうだ。それゆえ、兵士たちは白蘭の来訪を心待ちにしていた。目の保養になるし、休憩もできる。


『いいのかい?』

『俺は羽を伸ばすより息抜きがしたい』


 紅蓮は逞しい肩をそびやかすと、白蘭を天幕の中へと招き入れた。


『しかしまあ、いつ見ても、生きているのが不思議なくらいの美人だよな、白蘭様は』


 紅蓮と笑顔で語らう白蘭を盗み見ながら、兵士の一人が囁いた。それを受けて、周りの兵士たちが口々に答える。


『そりゃあもう、本物の月が恥じ入る〝白き月〟だからな。実物見たら納得だ』

『そうそう。うちの団長と親友じゃなかったら、俺たち一生お目にかかれなかったぜ』


 かたや、地人族には〝赤い悪魔〟と恐れられ、天人族には〝赤き太陽〟と讃えられる勇猛な武人。

 かたや、天卓の十三人の一人であり、その並はずれた美貌から〝白き月〟と賛美される柔和な文人。

 外見も気質もまったく正反対に思える二人だが、どこがどう馬が合うのか、学問所を出てから現在に至るまで、その交流は途絶えることなく続いている。

 互いの立場上、滅多に会えないためなのか、白蘭が今日のように何かしら用事を作って紅蓮を訪ねることも、いまや珍しいことではなかった。


『親友かあ……』


 一人の兵士が溜め息を吐き出す。


『いつも思うんだが、あの二人……本当に親友同士なのか? あれはどう見ても……』


 その続きは誰も言葉にはしなかった。


『それは俺も思うけど、もし本当にそうなら、白蘭様の許婚は団長に内定してるってことになるだろ? それなら、もうとっくの昔に公表されてると思うんだよな』

『今んとこ、決まったって発表ないよな?』

『あったら天都中がひっくり返ってるだろ』

『――俺は団長に決まるに羽十枚』

『あ、俺も』

『じゃあ、俺は三十枚』

『俺、百枚』

『駄目だこりゃ。出来すぎてて賭けにならねえ』

『なら、俺は大穴狙いで、蒼芭様に三枚』


 兵士たちはいっせいに叫んだ。


『ありえねえ!』


 一方、天幕の外で兵士たちがそんな下世話な話をしているとは思いもよらない白蘭は、紅蓮が無造作に机上に置いた水晶玉を興味津々で眺めていた。


『開封しないのかい?』


 今ではすっかり大人の男へと変わってしまったかつての少年は、面倒くさそうに太い眉をひそめた。


『今ここでか?』

『もし急用だったら、私がこのまま返事を持っていくよ。君は筆無精だから』

『おまえは手紙の内容を知らないのか?』

『他人の手紙を無断で覗き見るような趣味は私にはないからね』

『他人の帳面に勝手に書きこむ悪戯心はあるがな』


 ぼそりと返して、紅蓮は水晶玉を手に取った。

 通常、文書用の水晶玉は、天人ならば触れるだけで読めるように作られているが、特定の天人にしか読めないように術をかけ、親書とすることもできる。しかし、高位の天人、それも神殿の実質的な長である白蘭ならば、たとえ黒蘆の手紙であっても、盗み読みなど実にたやすい。


『あれは……!』


 白蘭は白い顔を赤らめて羽を震わせた。


『君があんまり真面目に授業を受けないから、ほんの少しデタラメを書いただけじゃないか。普通気づくだろう、おかしいって』

『おまえが書いたから本当だろうと信じてしまったんだ。あれのせいで俺はあやうく単位を一つ落とすところだった』

『おかげで授業は真面目に受けるものだと骨身に染みただろう』

『ああ。友人は無闇に信じるものではないと身をもって学ばせてもらった』

『紅蓮……』


 薄桃色の唇を尖らせて紅蓮を睨みつける。見かけは大人になっても、まだ多分に子供っぽいところが残っていた。だが、白蘭がそんな顔を見せるのは、紅蓮の前でだけなのだ。

 紅蓮は苦笑すると、机上にあった菓子がわりの命玉を何個か白蘭の前に置いた。昔、これと同じものを白蘭にくれていたあの優しい兵士たちは、紅蓮とは別の師団に在籍していため、この頃にはもう会う機会もなくなっていた。


『悪かった。おまえをからかうと面白いのでつい。これでも食べて機嫌を直せ』

『私はもう子供ではないんだよ……』


 そう言いながらも、素直にもらってしまう白蘭だった。


『黒蘆が俺に寄こす手紙など、ろくな内容ではない気がするがな』


 水晶玉が一瞬白く光る。紅蓮が手紙を開封したのだ。


『君、神殿の中でそんなことを言ったら、不敬罪で捕まるよ』

『それがどうした。ここは神殿じゃない』


 不敵に言い返した紅蓮だったが、しばらく黙りこむと、どうやら黒蘆を〝様〟づけで呼ばねばならなくなったようだと白蘭に告げた。


『召喚状だ。明日、神殿の御前会議に出頭しなければならん』


 白蘭は紫水晶にも喩えられる瞳を見開いた。


『紅蓮。君、何かしでかしたのかい?』

『さあ。特に心当たりはないが。俺に守護天将の御名をくれてやるそうだ』


 すぐには言われた意味がわからなくて、白蘭は命玉を握ったまま呟いた。


『本当に?』

『読むか?』


 紅蓮は水晶玉を白蘭の前に突き出した。少しだけ黒蘆に申し訳ないような気がしたが、内容が内容である。

 白蘭は水晶玉を受け取って、紅蓮が言ったことが嘘ではなかったことを確認した。


『紅蓮――』


 驚きすぎて、それ以上言葉にならない。そんな白蘭を紅蓮は面白そうに見やった。


『おまえは知らなかったのか?』

『知っていたら、たとえ口止めされていても、君に話していたよ』

『御名の選定と授与には、天卓の十三人全員の同意が必要だと聞いていたが』

『一応そういうことにはなっているようだけどね。私はあの中でいちばんの若輩者だから、実際どうやって決定されているのかはよくわからないんだ。翠菻だったらもしかしたら知っているかもしれないけど』


 学問所卒業後、希望どおり音楽院に属した彼女は、瞬く間にその才能を認められ、楽天の御名を与えられて、白蘭よりも一足早く天卓の十三人の一人となっていた。翠菻本人は恐縮して、たまたま前任者が高齢だったからというのだが、運も実力のうちである。


『ということは、黒蘆以外は誰も知らない可能性もあるわけか』

『私一人だけが知らなかった可能性もあるけどね』


 まったく考えられないことでもないだけに、白蘭はふてくされて答えた。

 白蘭が紅蓮と親しいことは誰でも知っている。白蘭にこのことを知らせれば、先ほど白蘭自身が言ったように、すぐに紅蓮へと伝わってしまうだろう。正式な通達前にばらされるのは、形式を重んじる長老たちには面白くないことに違いない。


『まあ、不甲斐ない私のことは置いておいて。おめでとう、紅蓮。守護天将だなんて、すごいじゃないか』


 もしかしたら、守護天将の御名を受けるかもしれない――

 あの死んだ兵士が言ったことが、とうとう現実になったのだ。そのことがようやく実感されてきて、白蘭は溢れんばかりの笑顔で紅蓮を祝福した。

 しかし、我が事のように喜ぶ白蘭に対して、紅蓮は普段どおりの冷静さを保ったままだった。


『俺は御名が何であろうとどうでもいい。肝心なのは、これでやっとおまえと同じ位置に立てるということだ』

『ああ、そうだね。……結構待ったかな』


 わざとすましてそう応じると、実は気にしていたのか、紅蓮は嫌そうに顔をしかめた。


『年寄りどもがなかなか引退してくれないからな。誰が俺に席を譲ってくれるんだ?』

『少なくとも、蒼芭様ではないと思うよ』

『だろうな。もしかしたら、奴はおまえのように、このことも知らないかもしれん』


 白蘭が返した水晶玉を弄びながら紅蓮が言う。


『知っていたら、決して認めなかっただろう。たった一人でも反対しつづけたはずだ』

『そうかな』


 白蘭は首を傾げて異を唱えた。


『何のかんの言っていても、あの方がいちばん君を買っているように思うけど』


 軍に属してからは、さすがに蒼芭に勝負を挑むこともなくなったようだが、結局一度も勝てずに終わったことが、いまだに紅蓮には悔しいらしい。

 だが、神殿での御前会議の際、紅蓮の戦場での活躍ぶりが話題に上ると、白蘭の他にどこか誇らしげな様子を見せるのが蒼芭なのだ。自分がここまで育ててやったという自負があるのかもしれないが――紅蓮はおまえに教わったことなど何一つないと怒るだろうが――すでに紅蓮のことを好敵手として認めているように思えた。


『俺にはとてもそうは思えんが。顔を合わせるたび嫌味を言われるぞ。智天殿とはまだ友人同士なのかと』


 紅蓮は苦々しそうに愚痴った。なるほど、それは腹が立つだろう。

 他の天人たちとは違い、天母として生を受けた白蘭は、己の才覚などには関係なく、単に成人したから智天の御名を授けられただけにすぎなかったのだが、それでも、まだ一介の上級神官だったときと、天卓の十三人の一人となった後とでは、周囲の自分たちを見る目も変わってくるのだ。

 まったく馬鹿馬鹿しいことだが、負けず嫌いの紅蓮には耐えがたかったに違いない。紅蓮が今までそのことを白蘭には明かさなかったのも、やはり自尊心が許さなかったからだろう。


『それに君はいつも何て答えるんだい?』


 好奇心からそう訊ねると、紅蓮はしかつめらしく答えた。


『〝とりあえず、蒼芭殿よりは私のほうが、まだ親しくしております〟』


 白蘭は紅蓮と顔を見合わせ、二人同時に噴き出した。


『とんでもないことを言うね、君は。まあ、嘘ではないけれど。それに蒼芭様は何て?』

『〝それは重畳ちょうじょう〟』

『あの蒼芭様が?』


 ひとしきり共に笑いあうと、白蘭は笑いすぎて涙が滲みはじめた目元を拭いながら、床几しょうぎから立ち上がった。


『ああ、おかしかった。……さて、そろそろ私は神殿に戻ることにするよ。また捜索隊を出されたら困るからね。黒蘆様には何とお伝えしておこうか?』

『下級神官の仕事を横取りして来たのだろう? おまえが俺の伝言などを預かっていってはまずいのではないか?』


 にやにや笑って、紅蓮も腰を上げる。


『きっと黒蘆様にはすべてお見通しなのだろうと思うけどね。……もちろん来るんだろう?』

『あえて断る理由はないな』


 紅蓮は肩をすくめると、白蘭よりも先に天幕の外へ出た。


『明日、特に予定がないのなら、時間より早めにおいでよ。私が中を案内するから』


 上機嫌な白蘭に、紅蓮は呆れたような目を向けた。


『俺だって、まったく神殿を知らないわけではないぞ。黒蘆に呼ばれて謁見の間くらいまでは入ったことがある』

『逆に言えばそこだけだろう。あそこは神殿の中で最もつまらない場所なんだよ』

『そんなところに、これから俺も通わなければならないのか』


 何となく想像はつく。紅蓮はうんざりとした表情を隠せなかったが、白蘭はにこやかに笑んだまま羽を広げて、ふわりと宙に浮いた。


『そこで私はもうずいぶん我慢したんだよ。君がいないから、ずっと寂しかった』

『白蘭……』


 白蘭は少し考えて、紅蓮の耳許に唇を寄せた。


「明日、神殿のあの場所で待っているから」


 念波ではなく、声帯を震わせる声で囁くと、紅蓮は白蘭の腕を捕らえようとした。しかし、白蘭は笑いながらその手をかわして空に舞い上がり、瞬く間に飛び去った。

 先ほど蒼芭に羽三枚を賭けた兵士は、自分の耳を押さえて呆然と親友を見送っている師団長の姿を目撃した直後、賭けの取り消しを仲間たちに申し出た。

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