04 練兵場(後)

『またおまえか』


 その念波にはうんざりしたような気色が含まれていたが、意外にも怒りはなかった。


『ここは子供の遊技場ではないと何度言えばわかる。せめて学問所を卒業してから来い。そうすればいくらでも、嫌というほど俺が鍛えてやる』


 紅蓮は何も答えなかった。目上の、それも天卓の天人に対して、その態度は不遜以外の何物でもなかったが、それについては蒼芭は言及せず、紅蓮の向かいで見えない鎖によって縛り上げられているかのように直立している兵士に目を向けた。


『もう子供の相手はするなと言い置いてあったはずだが』

『はっ。申し訳ございません、蒼芭様』


 蒼芭よりも背丈のある兵士は、神妙な面持ちでそう答えた。

 紅蓮のせいで何か罰を受けるのではないかと白蘭ははらはらしていたが、ふと自分の前にいる兵士を見上げると、笑いたいのを無理にこらえているような顔をしていた。そっと他の兵士の様子も窺えば、やはり同じようにいかつい顔をひくつかせている。どうやら、さほど深刻な事態というわけでもないらしい。白蘭は少しだけほっとしたが、兵士に対する蒼芭の言葉を聞いて目を丸くした。


『この場にいた者はすべて同罪。今日から三日間、全員飯抜きだ』

『はっ。了解いたしました』


 兵士たちは即座に答えて敬礼した。軍隊では連帯責任が基本であり、兵士たちにとって飯抜きなど処罰にも入らないほど軽いものなのだが、それを知らない白蘭は、いくら己のせいではないとはいえ罪悪感を覚えた。紅蓮もそう思ったのか、顔色を一変させて割りこんだ。


『みんなは悪くない! 悪いのは俺だ!』


 蒼芭はゆっくりと振り返り、冷ややかに紅蓮を見下ろした。


『こやつらがおまえを相手にしなければ済んだことだ。今日はもう帰るがいい。学問所には知らせないでおいてやる』


 蒼芭のとった処置は実に適切だった。この少年には何がいちばん堪えるかを計算した上で、兵士たちにのみ最小限の罰を与えたのだ。

 蒼芭自身はこの型破りな少年に悪感情は持っていない。ただ、軍隊という甘えの許されない組織内に、まだ子供の紅蓮を入りこませることは、彼の戦士としての矜恃が許さなかった。子供のうちは子供らしく、棒でも振り回して遊び呆けていればよいのだ。子供でいられる時間はあまりにも短い。

 しかし、蒼芭は紅蓮の気性について、今一つ読みが甘かった。紅蓮は剣の切っ先を蒼芭に突きつけると、低くこう訊ねたのである。


『俺があんたと戦って勝ったら、みんなへの罰を取り消すか?』

『紅蓮!』


 これには兵士たちも血相を変えた。が、蒼芭にじろりと睨まれ、息を呑んで引き下がった。

 蒼芭は物わかりのよい上官ではあるが、いったん頭に血が上ると歯止めがきかなくなるところがある。もしかしたら激情のままに紅蓮を殺してしまうかもしれない。

 蒼芭は紅蓮に目を戻した。紅蓮の剣は彼を指したまま、ぴくりとも動かない。

 と、蒼芭の羽が震えた。やがて震えは体全体に及び、耐えきれなくなったように彼は笑い出した。


『面白い!』


 蒼芭は己の剣状の右手を掲げると、それで紅蓮の剣先を弾いた。


『よかろう。やってみろ。俺はこの右手一本で戦う。この俺にかすり傷一つでもつけられたらおまえの勝ちだ。罰の取り消しのみならず、今後自由にここを訪れることを許してやろう。だが、おまえが負けた場合、命の保障はせんぞ。その覚悟はあるのか?』

『ある』


 短く答えて、紅蓮は剣を構え直した。


 ――勝てるわけがない。


 紅蓮以外の誰もがそう思っていた。蒼芭はきっと完膚なきまでに紅蓮を叩きのめすことだろう。殴られるのならまだいい。もし腹でも切られたりしたら。

 そう考えた瞬間、白蘭の小さな体は兵士の陰から飛び出していた。


『白蘭!』


 その切っ先が寸前で止まったのは、やはり蒼芭が稀代の戦士であったからかもしれない。

 純白の羽を持つ美しい子供は、今にも泣き出しそうな顔をしながらも、細い両腕を懸命に広げて、緋色の髪をした友を庇おうとしていた。


『バカ! 何でおまえ……!』

『白蘭? なぜこんなところに?』


 訝しげに呟きながらも、蒼芭は白蘭の眼前から己の腕の刃を外した。ほっとしたと同時に全身から力が抜けて、白蘭は青草の上にしゃがみこむ。

 紅蓮は剣を放り出すと、白蘭の白い肌のどこにも傷がないことを確認し、深い溜め息をついた。そして、再び白蘭を叱責しようとしたところで、それを遮るように蒼芭が念波を発した。


『そういえば……学問所に通っていると神官たちが言っていたな。友達か?』


 蒼芭は白蘭に訊ねたのかもしれなかったが、自分の懐の中に白蘭を抱えこんだ紅蓮が叩きつけるように答えた。


『そうだ!』

『友達ねえ……』


 蒼芭の念波には奇妙な笑いが含まれていたが、その真意は白蘭たちにはわからなかった。


『まあよい。今回は未来の天母殿に免じて不問にしてやろう。ここへも来たければ勝手に来るがいい。ただし、戦の前には邪魔をするな。我らは遊びで戦っているわけではない』


 蒼芭は紅蓮の返事も聞かずに踵を返すと、羽を広げていずこかへと飛び去っていった。

 一同はしばらくあっけにとられてその姿を見送っていたが、急に紅蓮が表情を険しくして白蘭を睨みつけた。


『何であんなことしたんだ!』

『だって……あのままじゃ君が……』

『だからっておまえが出しゃばることないだろ! 下手したらおまえが死んでたんだぞ!』

『まあまあ』


 兵士たちは苦笑いしながら紅蓮を取り押さえ、頭の羽を寝かせて震えている白蘭から引き離した。


『だいたい、元はと言えばおまえが悪いんだ、紅蓮。どう考えたって今のおまえが蒼芭様にかなうわけないだろうが』

『そうそう。それに飯抜きって言ったって、いくらでも抜け道はあるし』

『まあ、その気持ちは有り難いけどな』

『むしろ、おまえさんは白蘭に感謝するべきだ。白蘭がいなかったら、今そうして無傷で立っていられなかったぞ』


 兵士たちに責め立てられ、紅蓮の顔はますます不機嫌さを増していく。

 それまで白蘭はこれほど怒っている紅蓮を見たことがなかった。さらに、その原因は自分なのだ。白蘭は兵士に肩を抱かれたまま、菫色の瞳からぽろぽろと涙をこぼした。


『あーあ。泣いちゃったよ』

『かわいそうになあ。白蘭は悪くないのになあ』


 兵士たちが同情したように白蘭を覗きこんでくる。自分でも恥ずかしいから泣きたくないのだが、紅蓮に嫌われたのではないかと思うと悲しくて、涙が止まらないのだ。

 そんな白蘭を紅蓮は顔をしかめたまま見つめていた。が、突然泣くなと怒鳴りつけると、白蘭の手を強引につかんで走り出した。


『紅蓮……?』

『今日はもう帰る。泣くんだったら、俺の前でだけ泣け』


 白蘭にだけ聞こえるように囁くと、紅蓮は両腕で彼を抱えて羽を広げ、空中に舞い上がった。


『白蘭ー。これに懲りずにまた遊びにこいよー』


 兵士たちが笑いながら手を振る。それに白蘭が律義に応えようとすると、紅蓮は彼を押さえつけて兵士たちを振り返った。


『あんたらが、ちゃんとこいつを見張ってくれてたらよかったんだ!』

『おいおい。今度は八つ当たりか?』

『まあ、奴の言い分にも一理ある』

『もしかして俺か? 俺が悪いのか?』

『そうだよ。おまえだよ。だからいつまで経っても出世できないんだよ』

『とにかく、白蘭が無事でよかった。今頃、蒼芭様もそう思ってんじゃないか?』


 兵士たちがそんな軽口を叩いている間に、守護天将候補と天母候補は空に吸いこまれるようにして消えていった。

 誰も言葉にはしなかったが、あの健気な子供が自分の好きな相手と添い遂げられればいいと思っていた。

 そうでなければ、あまりにも不憫すぎる。

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