03 練兵場(前)

 その日から、紅蓮は学問所のほとんどの授業に参加するようになった。

 ただし、教室内にいるだけで真面目に受けているとは限らないのだが、勝手に抜け出したり騒いだりしなければそれでいいと教官たちは割り切ったようだ。

 最初のうち、紅蓮は白蘭とばかり会話していた。しかし、白蘭がいれば第三者とも普通に話すため、少しずつだが、白蘭を介して他の子供たちも紅蓮と接するようになった。

 もともと、紅蓮は多少乱暴だが面倒見はいいのだ。頼られれば、無下に断るようなことはしなかった。気がつけば、紅蓮は白蘭がいなくても、他の子供たちと交流できるようになっていた。

 それを知った白蘭の心境は複雑だった。嬉しいような寂しいような。だが、紅蓮が周囲に受け入れられたというのはいいことだと思った。天人族には天都以外に生きられる場所はないのだから。

 それでも、紅蓮が大地に降りるとき誘うのは、常に白蘭一人だけだった。二回目には時間はかかったものの、何とか独力で飛ぶことができた。三回目には速度が上がり、四回目には紅蓮の横に並んで飛べるようになった。


『おまえ、なかなかやるな』


 それは紅蓮流の最高の賛辞だった。華奢な白蘭がここまで自分についてこられるとは思ってもみなかったらしい。

 白蘭はといえば、神殿に比較対象となる子供はいなかったため、自分の力の優劣など考えたこともなかった。

 しかし、学問所に通いはじめて、どうやら紅蓮と自分とは、他の子供たちより頭一つ飛び抜けているらしいことがわかった。紅蓮と自分には当たり前のようにできることが、他の子供にはなかなかできないことがたびたびあった。その中でも翠菻は賢く力もあったが――ことに音楽の才能に関しては誰一人かなわなかった――紅蓮と比べると、やはり物足りなさを感じた。

 紅蓮もそう思っていたのだろう。やがて、どこへ行くにも何をするにも、白蘭を連れていくようになった。紅蓮の体に生傷が絶えないのはこのせいかと、白蘭は身をもって知った。

 そんな紅蓮を神官たちは決して快くは思っていなかったが、会うのを禁じれば、また白蘭が絶食という抵抗手段をとることは目に見えていたため、くれぐれも危険な場所――たとえば地上――へ行ったり、危険な真似をしたりしてはいけないと注意するだけに留めていた。それらに白蘭は素直にうなずいていたが、もちろん背いたとしても報告する気はさらさらなかったし、実際報告しなかった。

 学問所を欠席していた頃に開拓したのか、紅蓮は天都内の様々な場所を知っていた。中でも紅蓮が気に入っていたのは、以前剣を習っていると言った練兵場だった。

 初めて練兵場に案内されたとき、青草に覆われた一画には、若い兵士たちが十人ほどいた。彼らは紅蓮に気づくと剣を振るう手を止めて、笑いながら集まってきた。久しぶりだなと口々に言ったが、すぐに紅蓮の傍らに立つ白蘭に目を留めて、意外そうな顔をした。


『友達か?』

『うん。白蘭っていうんだ』

『は……はじめまして。こんにちは』


 地人族と戦う兵士たちと直接会ったのは、これが初めてだった。彼らは普段白蘭が目にする大人たちとは違い、縦にも横にも大きくて、正直、彼には恐ろしかった。


『白蘭っていうと……ああ、あの』


 どうやら白蘭の知らないところで名前は知られていたらしい。物珍しそうに見つめられて恥ずかしくなった白蘭は、耐えきれずに紅蓮の翼の陰に隠れた。


『そんなに怯えなくても、いきなり取って食ったりはしないよ』


 鬣のような羽を生やした兵士は豪快に笑うと、近くに立てかけてあった剣を浮かび上がらせて、紅蓮の前で静止させた。


『ほら。やるんだろ?』


 紅蓮は剣の柄をつかむと、好戦的に笑った。白蘭が初めて見る表情だった。


『白蘭。ちょっと待ってろ』


 そう言ったが早いか、紅蓮はその兵士と打ち合いを始めた。白蘭が呆然としている間に、他の兵士が彼の肩を抱いて、二人の邪魔にならないところまで連れていってくれた。

 紅蓮が剣を交えている兵士は、紅蓮よりも倍以上は大きかった。おそらく、彼が本気を出せば、紅蓮は弾き飛ばされてしまうだろう。これは稽古であると同時に遊技なのだ。

 周りにいる兵士たちも、驚いたことに声を出し――人前で声帯を使っていいのは、歌を歌うときだけだ――二人を囃し立てている。

 体と同じくらい大きな剣を巧みに操る紅蓮は、学問所内にいるときとは別人のように生き生きとして見えた。きっと、体を動かすことが好きなのだろう。無駄のない鋭い動きは、見惚れるほど美しかった。


『食うかい?』


 白蘭の隣にいた爬虫類系の兵士が、巾着袋から小さな命玉を取り出して、自分の手のひらに載せた。血のような赤い色をしている。

 命玉は地人族から抜き取った精気を封じこめた石である。直接吸い取ることもできるのだが、通常は玉と呼ばれる黒い石に移し替えて食す。精気を吹きこまれると、玉は命玉と呼ばれ、色も黒から様々な色に変化する。暖色系は甘いから、この兵士は菓子として白蘭に与えようと思ったのだろう。

 天人族は総じて子供には甘い。ましてや、白蘭は男女の別さえつかないほど愛らしい容姿をしている。

 腹は減っていなかったが、兵士の好意を無駄にしないために、白蘭はいただきますと答えてその命玉を受け取った。小さな白い手で握りしめて精気を吸収する。それを見届けてから兵士は紅蓮を一瞥した。


『紅蓮が好きなのかい?』


 白蘭は思わず兵士を見上げた。兵士は悪戯っぽく笑うと、彼の肩をぽんぽんと叩いた。

 たとえ相手が子供であっても、天人族は他人の羽には軽々しく触れない。天人族にとって羽とは感覚器であり、最大の弱点でもある。


『さすが、ちっちゃくっても男を見る目はあるな。あれは将来絶対強くなるぞ。もしかしたら、守護しゅご天将てんしょうの御名も受けるかもしれない』


 その御名は天人族最強を意味した。かつての守護天将が戦死して数百年、その御名を与えられた者はいまだ出ていない。


 ――そうか。紅蓮は強いのか。


 妙な話だが、それまで白蘭はそういう観点で紅蓮を見たことがなかった。とにかく紅蓮と一緒に遊び回るのが楽しくて、紅蓮や自分の将来など、考えたこともなかった。

 たぶん、紅蓮は学問所を出た後、軍事院に入るだろう。紅蓮ならきっと瞬く間に出世して、前線指揮官にもなれるだろう。この兵士の言うとおり、守護天将の御名も受けるかもしれない。

 だが、自分は、学問所を出たらきっとまた神殿でほとんどの時間を過ごすことになるだろう自分には、長老たちの決めた相手と子を成すというお仕着せの未来しかない――

 気づきたくなかった、と白蘭は思った。せめてもう少し、何も考えずに紅蓮と遊んでいたかった。

 兵士と紅蓮の打ち合いはまだ続いていた。技術はあっても体力の差はいかんともしがたく、紅蓮の息は上がりはじめていた。しかし、兵士は容赦しない。まさか命をとるようなことはないだろうが、怪我はさせられるかもしれない。白蘭が不安を覚えはじめたとき、一際大きな念波が響き渡った。


『貴様ら、何をやっておるか!』


 白蘭はもちろん、兵士たちでさえすくみ上がった一喝だった。


『やべ。蒼芭ソウハ様だ』


 命玉をくれた兵士が呟き、白蘭を自分の体の陰にさりげなく隠した。

 兵士たちは直立不動の体勢をとって、兵舎のほうから現れた者の到着を待っていたが、紅蓮だけはつまらなそうに剣を弄んでいた。

 紅蓮は念波の主をすでに知っているようだったが、白蘭もまた知っていた。天卓てんたくの十三人のうちの一人であるその天人は、会議のために神殿を訪れることもしばしばあったからだ。もちろん、まだ子供の白蘭は、会議に出席することなどないので、会ったら挨拶をする程度だったが。

 闘天・蒼芭。

 戦うことに特化されたされたその体は、個体差の激しい天人族の中でもとりわけ異彩を放っている。天人族の最大の特徴である羽――ただし、彼のそれは羽毛状ではなく、薄膜状のものだった――は背中にあるものの、全身は昆虫を思わせる濃紺の甲殻で覆われており、腕は物をつかめる指のあるものと剣のような切っ先を持つものの二対あった。額にはやはり濃紺の触覚が二本生えており、白目のない琥珀色の左目以外は、包帯のような黒い布で覆われていた。

 天人族は、白蘭や紅蓮のような地人族に近い容貌を持つ者――無論、彼らは地人族に似ているなどとは決して考えないのであるが――と、蒼芭のような地人族とはかけ離れた容貌を持つ者との二つに大別できる。割合としては前者のほうがやや多いが、どちらも同じ天人族であり、外見によって差別されることはない。だが、天人族内で〝美しい〟と讃えられるのは、もっぱら地人族に近い者のほうだった。

 まだ幼い白蘭を公然とそう評する者はいなかったが、誰もが成長すれば絶世の美貌を誇る天人になるだろうと信じて疑わなかった。そして、その天人を伴侶にすることができるのは、優秀な遺伝子を持つ選ばれた者のみなのだ。

 蒼芭は迷うことなく紅蓮の前へ行くと、無遠慮に彼を見下ろした。紅蓮はまったく動じず、真正面からその視線を受け止めた。

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